シングルマザーと付き合う、と決めた男性は、たいてい最初に「覚悟」という言葉を使う。
子どもがいることはわかってる。自由な時間が限られることもわかってる。元夫の存在も、お金の問題も、全部含めて好きになったから付き合うそう言って関係を始める。
でも実際に付き合い始めると、覚悟していたはずのことが、想像とまるで違う形でやってくる。子どもの発熱でデートがキャンセルになる夜。自分より子どもが優先される瞬間に感じる、説明しにくい感情。元夫の名前が会話に出るたびに、胃のあたりが微妙に固くなる感覚。
どれも、覚悟した「つもり」でいたことだ。でも「つもり」と「実際」の間には、言葉にしにくい隙間がある。
雨の夜の中野
中野駅の北口を出て、ブロードウェイの手前を右に折れた路地。居酒屋と中華料理屋が交互に並ぶ、観光客が来ない種類の街。雨が降っていた。傘を畳んで入った小さな居酒屋の奥の席に、坂井さん(仮名・35歳・IT企業勤務)はいた。
生ビールが半分残っていて、テーブルの上に携帯を画面を下にして置いていた。こちらが座るなり、「今日、彼女が子どもの夜泣きがひどくて会えなくなったんですよ」と言った。苦笑いだったが、目が疲れていた。
「こういう日が、月に何回かある。最初は全然平気だったんですけど——最近、正直しんどくなってきてて」
少し間があった。
「でも、しんどいって誰に言えばいいんですかね。彼女に言ったら、傷つけるだけだし。友達に言っても、じゃあ別れたら、ってなるだけだし。その感情の置き場所が、ないんですよ」
シングルマザーと付き合う、と決めた夜の話
坂井さんが今の彼女と出会ったのは、職場の飲み会だった。32歳のシングルマザーで、子どもは5歳の女の子。
「最初に知ったのは、2回目に会ったときです。シングルマザーだって聞いて正直、一瞬、迷った。迷ったのは本当で。でも、好きになってたから。迷いより気持ちのほうが大きかった」
「その夜、家に帰ってから2時間くらい、一人で考えた。子どもとの関係、元夫の存在、時間の制約、将来のこと。全部を並べて、それでも付き合いたいかどうか。で、付き合いたいという結論になって、翌日に告白した」
「今思うと、その2時間の考えが浅すぎた。頭の中でシミュレーションしたつもりが、全部概念だった。実際に体験することの重さが、想像の10倍くらいあった」
次に話を聞いた三上さん(仮名・38歳・自営業)は、過去に2人のシングルマザーと交際した経験を持つ。大阪から上京したついでに会ってくれた。喫茶店に来たとき、少し日焼けしていた。
「1人目は29歳のとき。彼女は2歳の子を持つ30歳だった。好きになったのは純粋に彼女自身で、子どもがいるからどうとか、最初は全然考えなかった」
「でも付き合ってみたら時間の感覚が全然違う。俺は週末に会いたいと思っても、子どもの都合が最優先になる。保育園の行事、予防接種、友達の子どもの誕生日会全部が俺との予定より先にくる。それは当たり前のことで、むしろそうあるべきだと頭ではわかってた。でも、毎回後回しにされる感覚が積み重なって8ヶ月で別れた」
「別れた理由を彼女に言えなかった。子どもがいるから、なんて言えない。だから仕事が忙しくなったという理由にして、フェードアウトした。今でも、それは誠実じゃなかったと思ってる」
「子どもという、越えられない優先順位」男性が直面する感情の構造
この取材を通じて、シングルマザーとの交際における男性の感情に、ある共通した構造が見えてきた。
シングルマザーと付き合う男性の多くは、交際前に「子どもを含めて受け入れる」という意識を持つ。その意識は本物だ。でも実際に関係が始まると、受け入れる、という言葉が想定していなかった感情に直面する。
それは、自分が常に二番目である、という現実だ。
恋愛において、人は多かれ少なかれ相手の中で一番でいたいと思う。その欲求は自覚していなくても存在する。シングルマザーとの関係では、その欲求が最初から叶わない。子どもが一番、という構造が最初から固定されている。
問題は、それを頭でわかっていることと、感情として受け入れられることの間に、深い溝があることだ。
この溝を私は取材中、越えられない優先順位と呼ぶようになった。越えようとすること自体が間違いで、越えられないことを前提に、それでも自分の場所を見つけられるかどうかが、関係の分岐点になる。
坂井さんはこう言った。「子どもが一番なのは、当然だとわかってる。でも当然だとわかっていても、感情はついてこないことがある。その感情を持つことへの罪悪感が、またしんどくて。子どもがいるのに嫉妬してる自分が、最低な人間に思えて」
その罪悪感を誰にも言えない、という状態が、男性たちをじわじわと消耗させていく。
交際中に起きた、予想外の出来事——当事者男性の証言
都内在住の林さん(仮名・32歳・教師)は、1年半付き合ったシングルマザーとの交際を、3ヶ月前に終えた。
待ち合わせた池袋のカフェで、向かいに座ると、目の下にうっすら疲れの色があった。
「付き合い始めて最初の3ヶ月は、本当によかった。彼女は強くて、明るくて、一人で子育てしながらフルタイムで働いてて。その姿が格好よくて、尊敬してた。こんな人を支えられる男になりたい、みたいな気持ちがあった」
「変わったのは、4ヶ月目に、元夫が登場してきてから」
林さんが言う登場とは、面会交流のことだった。月に一度、子どもが元夫と過ごす日がある。
「面会の日、彼女が元夫と連絡を取り合う。子どもの引き渡しで会うこともある。それ自体は当たり前の話で——頭ではわかってた。でも実際に、元夫の名前が彼女のスマホの通知に出てくるのを見た瞬間、なんか、ぞわっとした。嫉妬とも違う、不安とも違う、でも確実に何かが動いた感じがして」
「彼女に話せなかった。話したら、元夫を気にしてる男だと思われる気がして。だから一人で抱えてた。その感情を4ヶ月抱えてだんだん、彼女の前でいい顔をし続けることに疲れてきた」
林さんは、別れた後も後悔していると言った。
「別れたのは俺のほうから。でも、あのとき話せてたら違ったかもしれない、という気持ちがずっとある。元夫のことが気になってることを、正直に言えてたら彼女は傷つくかもしれないけど、俺の感情を知ることができたから。言えなかったことが、全部を終わらせた」
子どもとの関係——うまくいった話、いかなかった話
三上さんは、2人目のシングルマザーとの交際で、子どもとの関係が重要だと学んだと言った。
「2人目の彼女は、9歳の男の子がいた。最初から子どもとも仲良くしようと思って、意識的に関わった。週末に一緒に公園に行ったり、子どもの好きなゲームを調べて話しかけてみたり」
「でも子どもが、俺を受け入れなかった。彼女に対しては懐いてたんですよ。でも俺に対しては、明らかに警戒してた。目が合っても逸らされる。話しかけても単語で返ってくる。それが半年続いた」
「頑張れば打ち解けると思ってたけど、頑張れば頑張るほど、子どもが引いていく感じがして。あるとき彼女に相談したら、急に仲よくしようとするのが、子どもに伝わってるのかもしれない、と言われて」
「その言葉が刺さった。俺は子どもと仲よくなろうとしてたんじゃなくて、子どもに認めてもらおうとしてたんだ、って気づいた。動機が自分のためだったから、子どもに見透かされてた」
「そこから変えた。仲よくしようとするのをやめて、ただそこにいるだけにした。ご飯を一緒に食べるだけ。テレビを横で見てるだけ。そしたら半年後くらいから、子どものほうから話しかけてくるようになった」
坂井さんの場合は、まだ子どもに会ったことがない。
「彼女が、まだ早いと言ってる。付き合って8ヶ月なのに、会わせてもらえてない。それが正直、少し寂しい。子どもとの関係を築く前に、関係自体が終わるんじゃないか、という不安がある」
シングルマザー側が語る「この人には言えなかった本音」
男性側の話だけでは片面しか見えない。シングルマザーとして交際している女性の話も聞いた。
埼玉在住の斎藤さん(仮名・34歳・看護師)は、1年間付き合っている男性がいる。
待ち合わせた大宮のカフェで、斎藤さんは時間ちょうどに来た。仕事終わりで、少し疲れた顔をしていたが、話し始めると声がしっかりしていた。
「彼は優しくて、子どものことも理解してくれてる。文句のない人なんですよ。でも一個だけ、言えてないことがある」
何ですか、と聞いた。
「彼が、たまに子どもに嫉妬してるんだな、ってわかる瞬間があって。子どもの話を私がしすぎた後の、彼のトーンの変化とか。デートがキャンセルになった夜の、LINEの返信の短さとか。全部わかってる、私は」
「でも気づいてないふりをしてる。気づいてる、と言ったら彼が、自分の感情を恥じると思うから。シングルマザーの子どもに嫉妬してる自分を責めてるのが、わかるから。だから、見えないふりをして、さりげなくフォローして、彼が傷つかないようにしてる」
「それが、しんどい」と、斎藤さんは静かに言った。
「私も正直に話したい。でも話したら、彼が傷つく。だから話せない。その遠回りが、関係の中に少しずつ溜まってきてる気がしてそれが怖い」
彼女は続けた。
「シングルマザーと付き合うのが大変なのは知ってる。だからこそ、大変さを認めてほしい。大変じゃないふりをしなくていい、ということを、彼に伝えたい。でも伝えると、大変だと認めてしまうことになる気がしてその堂々巡りを、一年間やってる」
別れた男性・続いている男性——分岐点はどこか
取材した4人のうち、三上さんだけが、2人目のシングルマザーとの交際を3年間続け、最終的に結婚した。
「何が違ったか、というと全部を話せたことだと思う。子どもに認めてもらおうとしてた動機の話も、元夫の名前が出てくるときの感情も、自分が二番目であることのしんどさも、全部彼女に話した」
「彼女は怒らなかった。むしろ、言ってくれてありがとう、と言った。そこから関係が変わった。お互いが、感じてることを隠さなくなった」
「シングルマザーと付き合うことの難しさは、男性が正直な感情を持ちにくい構造にある、と俺は思う。子どもがいる相手に嫉妬するのは情けない、元夫を気にするのは小さい、後回しにされるのが嫌なのは自己中そういう自己検閲が働いて、全部を一人で抱えることになる。でもその検閲が、関係を静かに終わらせていく」
林さんは、別れた後にそのことに気づいた。
別れてから、あのとき話せてたら、と何度も思った。でも話すには、自分の感情を認めることが先に必要で俺はその感情を持ってること自体が恥ずかしくて、認められなかった。それが全部の根本だった気がする。