年収800万円、という数字を聞いて、何を思い浮かべるか。
タワマンの高層階。週末のゴルフ。ビジネスクラスの出張。そういうイメージを持つ人もいるだろう。あるいは都内で子どもを育てて、ローンを払って、老後の不安を抱えながら、「まあ普通かな」と感じている人がいることも、なんとなく知っている。
年収800万円は、日本の給与所得者の上位約10〜12%に位置する。決して珍しくはないが、多数派でもない。「裕福」と呼ぶには微妙で、「普通」と呼ぶには少し多い。その曖昧な場所に立っている人たちは、実際どんな生活をして、何を感じているのか。
この記事は、年収800万円前後に到達した経験を持つ4人への取材をもとにしている。数字の話だけでなく——お金が増えることで何が変わり、何が変わらなかったか。何を手に入れ、何を失ったか。
取材は、恵比寿の「思ったより普通な」バーで始まった
待ち合わせは恵比寿駅から徒歩8分。店名を聞いたとき、もっと高級な場所を想像していた。でも実際は、カウンター10席ほどの、照明がやや暗いだけの小さなバーだった。
最初に話を聞いた西村さん(仮名・38歳・メーカー勤務)は、すでに角のスツールに座って、ハイボールを飲んでいた。スーツではなく、きれいめのカジュアル。腕時計は、知っている人が見れば値段がわかる類のものだったが、主張はしていなかった。
「年収800万の生活、ですよね」
確認してから、少し笑った。
「正直に言っていいですか。800万になったとき、思ってたのと全然違いました。いい意味でも、悪い意味でも」
グラスを置いて、少しだけ前のめりになった。
「でも、その話をできる相手が、周りにいなかった。年収の話って、日本だと特にしにくいじゃないですか。だから今日、ちょっとだけ楽しみにしてました」
年収800万に到達した日——その瞬間、何が変わったか
——西村さんが初めて年収800万を超えたのは、何歳のときですか?
「34歳です。昇進と、ちょうど残業が増えた時期が重なって。源泉徴収票を見たとき、初めて800万を超えてた。感動するかと思ったら——正直、あんまり何も感じなくて。それがちょっと、怖かった」
「目標だったんですよ、30歳のころは。800万になったら、もっといい家に住んで、もっといい車に乗って、人生変わるって思ってた。でも実際になってみたら、毎日同じ電車に乗って、同じ駅で降りて、同じコンビニでコーヒー買って——何も変わってなかった」
——何も変わらなかった?
「生活の”質”は上がった。外食が少しリッチになって、服にかける金額が増えて、旅行がホテルのグレード一個上がった。でも”感覚”は変わらなかった。月曜の朝がしんどいのも、会議が無駄だと思うのも、夜中にふと虚しくなるのも、全部そのまんま」
「それで気づいたんですよね。俺が欲しかったのは800万じゃなくて、800万になれば消えると思ってた不安だったんだ、って」
生活レベルの”重力”——上げることより、戻せないことの話
ここで、この取材全体を通じて浮かび上がってきた、ひとつの核心的なテーマを整理しておきたい。
年収800万の生活を語るとき、多くの人が「生活レベルを上げることの気持ちよさ」と「一度上げたら戻れなくなることの怖さ」を、ほぼ同時に口にした。
これを私は取材中、「生活レベルの重力」と呼ぶようになった。
年収が上がると、支出の基準も自然と上がる。月3万円だった家賃が8万円になり、10万円になり、気づけばそれが「普通」になっている。外食で1500円のランチに何も感じなくなる一方、かつて平気だった500円の牛丼屋に、なんとなく入りにくくなる。
上がった生活レベルには、下方への強い抵抗が生まれる。つまり——年収が上がることで、「最低限必要な生活コスト」も同時に上がる。そのことに、到達した後で初めて気づく人が、取材した全員に共通していた。
西村さんはそれを「エレベーターに乗ったら降り口がなかった」と表現した。笑いながら言ったけれど、目は笑っていなかった。
手取り・税金・実際の可処分所得——数字の、全部のリアル
年収800万円と聞いて、毎月66万円が手元に入ると思っている人は多い。現実は、かなり違う。
取材対象者の一人、都内在住の田所さん(仮名・41歳・IT企業勤務)は、自分の給与明細を見ながら話してくれた。
「年収820万で、手取りは月に約47万円くらい。ボーナス込みで年間の手取りは570〜580万円くらいになります。所得税・住民税・社会保険料を合わせると、額面の約28〜30%が消える計算」
——そこから、毎月の固定費はどのくらいかかりますか?
「家賃が13万5千円。都内の1LDKで、築10年くらい。妻と二人暮らしです。ここだけで手取りの約28%が飛ぶ。食費が夫婦で月6〜7万円。光熱費・通信費・サブスク系が合わせて3万円くらい。保険が2万円。ここまでで25万円くらい消える」
「残りが22万円くらい。そこから交際費・服・旅行積立・車のローン・貯蓄に回す。贅沢はしてないつもりだけど、毎月カツカツではない——でも、年収800万って聞いてイメージするような”余裕のある生活”か、と言われると……正直、そうでもない」
田所さんは、少し疲れた顔でそう言った。
「子どもができたら、多分もっとしんどくなる。教育費、考え始めると夜眠れなくなる。800万でもそうなんですよ、東京だと」
食・住・移動・交際費——生活の中身を、全部開示する
複数の取材対象者の話をまとめると、年収800万前後の生活の実態として、以下のような輪郭が浮かんでくる。
住まい
都内の場合、家賃12〜15万円帯の物件が多かった。「タワマン」という声はなく、「立地と築年数のバランスを取った普通のマンション」という表現が複数から出た。持ち家派は、4000〜5000万円前後の物件でローンを組んでいるケースが多く、月の返済が15〜18万円になることもある。
「ローン組んだ瞬間、年収800万が一気に普通に感じた」と田所さんは言った。「返済してる、って感覚より、使えない金が毎月消えてる、って感覚に近い」
食事
外食の頻度は週2〜4回が多く、1回あたり2000〜5000円の店が中心。「1万円超えのコースは、特別なときだけ」という声が多かった。コンビニランチには抵抗が出てくる一方、高級レストランを毎週使えるほどでもない——その「どちらでもない地帯」が800万の食事風景だった。
移動
車を持っている人は取材対象の半数。国産車のミドルクラスか、輸入車のエントリーモデルが多かった。「ポルシェとかベンツとか、全然無理ですよ」と西村さんは笑った。「外車乗ってる同僚は、年収1200万以上ばっかり」
旅行・趣味
年2〜3回の国内旅行と、年1回の海外旅行が多数派。ホテルは「1泊2〜3万円帯を選べるようになった」という感覚の変化を全員が口にした。ビジネスクラスは「出張のときだけ会社が出してくれる、プライベートでは乗らない」という声が大半だった。
お金が増えて「失ったもの」の告白
取材の中で、最も予想外だったのが、全員が「失ったもの」を持っていた、という事実だった。
大阪在住のコンサルタント、中西さん(仮名・35歳)は、29歳から32歳にかけて年収が480万から850万に急上昇した経験を持つ。
——収入が上がる過程で、何かを失ったと感じることはありましたか?
少し考えてから、静かに答えた。
「……友達、ですね。正確には、話が合わなくなった友達が、数人いて」
「別に俺が変わったとか、奢れよとか、そういう話じゃなくて——なんか、感覚がずれてきた。週末に集まって、居酒屋で2000円の飲み会をするのが苦痛になったとか、そういう話じゃないんですよ。もっと細かい話で。仕事の話をしてても、前提が違う。悩みの質が違う。笑えるポイントが少しずつずれてくる」
「それが悲しかった。悲しい、って言っていいのかわからないけど。年収が上がったことで生まれた”喪失”って、誰にも言えないんですよ。言ったら自慢に聞こえるから。でも確かに、失ったものがあった」
——今、その友達とは?
「……会うこともあるけど、昔みたいな感じではない。それが、俺のせいなのか、お金のせいなのか、歳のせいなのか——正直、今でもわからない」
年収800万と人間関係——変わった付き合い、壊れた縁
田所さんは、年収が上がったことで「恋愛・結婚市場での自分の扱い」が変わったと感じている。
「マッチングアプリをやってた独身時代、年収欄を800万にした瞬間、マッチ数が体感で2〜3倍になった。それ自体は嬉しかったけど——なんか、俺じゃなくて数字を見られてる感じがして、途中から入力するのが嫌になった」
「結婚してからは、妻の親戚の集まりで明らかに扱いが変わった。最初は気分よかったけど、3回目くらいから、俺の年収がなかったらこの扱いはないんだよな、ってふと思うようになって。そこから、その集まりがしんどくなった」
一方、中西さんは逆の経験をしていた。
「地元の友達と飲むとき、おごることが増えて。最初は自然にやってたんだけど、あるとき地元の友達の一人に『なんかおごられるのが嫌になってきた』って言われて。ショックだったけど、その感覚はわかった。おごることで、俺は無意識に距離を作ってたのかもしれない」
「お金って、人間関係の潤滑油みたいに言われるけど——使い方を間違えると、一番鋭いナイフになる」
「幸せか」と聞かれたら——当事者たちの、正直な答え
取材の終盤、全員に同じ質問をした。「今、幸せですか」。
西村さんは「幸せだと思う、たぶん」と答えた。「ただ、800万だから幸せかどうかはわからない。800万でも不幸な人は不幸だし、300万でも幸せな人は幸せだと、今は思う。当たり前だけど、到達してみないとわからなかった」
田所さんは少し間を置いてから言った。「満足はしてる。でも安心はしてない。老後の資金考えると、800万でも全然足りない気がして、ずっと不安が消えない。その不安が、幸福感を上限で抑えてる感じがする」
中西さんは、一言だった。「わからない、が正直なところです」
あの夜、祝ってくれた人がいなかった話
冒頭の西村さんが、帰り際に付け加えた話を、最後に書いておく。
「800万を初めて超えた年の3月。源泉徴収票を見て、一人で家にいたんですよ。誰かに言いたかったけど——言える相手がいなかった。親に言ったら心配されるか、何かを期待される。友達に言ったら、自慢に聞こえる。彼女はいなかった。だから、一人でコンビニに行って、ちょっと高いプリンを買って、一人で食べました」
少しだけ笑った。
「それが、俺の年収800万到達記念日の全部です。プリンは、おいしかったですよ。でもなんか——なんかな、って思いながら食べた」
年収800万円は、日本において「勝ち組」に分類されることが多い数字だ。でもその数字の中に生きている人たちの話を聞くと、不安は消えず、孤独は残り、幸せは思ったより静かな形をしていた。
お金が増えることで、たしかに選択肢は広がる。行ける場所が増え、食べられるものが増え、ホテルのグレードが上がる。それは本物の変化だ。
でも「夜中にふと虚しくなる感覚」は、800万になっても、ちゃんとついてくる。
その虚しさと、どう付き合っていくか——それはお金が解決してくれる問いではなく、額面に関係なく、全員が自分で答えを探し続けるしかない問いなのかもしれない。
西村さんは今夜も、同じ電車に乗って帰る。手取りは47万円。プリンは、もう特別な日には買わなくなった。「なんか、普通になっちゃった」と、バーを出るとき、少しだけ残念そうに言っていた。