金曜の夜、二十三時。ベッドに転がって、右手だけでスマホを持っている。動いているのは親指だけだ。いいね、いいね、いいね。三十件送って、画面を閉じる。
翌朝、ロック画面には何もない。通知がひとつも来ていない、まっさらな画面。これを、俺は一年半のあいだ、ほぼ毎朝見ていた。
婚活でメンタルがやられる男には、たぶん共通した前兆がある。数を数え始めることだ。俺の場合、それはスプレッドシートという形をしていた。
数え始めた時点で、もう壊れかけている
二年間の記録が、全部残っている。消す前に、一度だけ全部足し算してみた。
送ったいいねが、およそ二千回。マッチしたのが六十人ほど。メッセージが三往復以上続いたのが二十人。実際に会えたのが十四人。二回目に進めたのが四人。三回目まで行けたのが、一人。
アプリの課金と、パーティーの参加費と、会うたびの飲食代と、写真のために買ったジャケット。全部足したら、五十万円を超えていた。
セルに数字を打ち込むたび、相手は人間じゃなくなっていく
シートには列があった。会った日、名前、年齢、返信の速さ、次につながったかどうか。備考の欄には、反省点を書いていた。話しすぎた、質問が少なかった、店選びを間違えた。
こうやって書くと、努力しているように見える。実際、俺もそう思っていた。でもあれは分析じゃない。採点だ。しかも、採点しているのは相手じゃなくて、俺自身だった。会った人をデータとして処理して、そのデータから自分の点数を出していた。人と会って話すという行為が、いつのまにか、自分の値打ちを測る計測作業に変わっていた。
数え始めたら終わりだ。今なら分かる。数字が上がらないと、上がらない理由を、人間は自分の中に探すしかなくなる。
効いてくるのは拒絶じゃない。理由が来ないことだ
殴られたら痛い。それは分かる。婚活の何がきついかというと、殴られたのかどうかすら教えてもらえないところだ。
三回会って、四回目の直前に消えた人
一度だけ、うまくいきかけたことがある。三回会って、三回とも笑っていた。四回目の店も決まっていた。その二日前に、価値観が合わないかも、ごめん、という短い文が来て、それきり連絡が取れなくなった。
何日も考えた。仕事中もぼんやりして、会議で名前を呼ばれても気づかなかった。どこで間違えたのか。二回目の店が悪かったのか。三回目に将来の話をしたのがまずかったのか。答えは出ない。永久に出ない。彼女はもう、俺の質問を受け取ってくれないからだ。
理由のない不合格が続くと、人は自分の存在に理由を探す
これが婚活で男のメンタルがやられる、いちばん芯の部分だと思う。
不合格には、普通、理由がつく。仕事なら、この経験が足りない、この資格を取ってこい、と言われる。だから次に何をすればいいかが分かる。改善できる失敗は、人を壊さない。
婚活は違う。ほとんどの場合、返事が来ないだけだ。理由は説明されない。説明する義務も、向こうにはない。理由のない不合格を、二千回に近い回数、静かに積み上げていく。すると、どこかの時点で、脳が勝手に結論を出す。理由が見当たらないなら、原因は行動じゃなくて、俺という存在そのものなんじゃないか、と。
改善点が特定できない失敗は、必ず人格の否定に化ける。俺はこれに一年半かけて到達した。
条件の欄を埋めるたび、自分で値札を下げていた
プロフィールには、身長を書く欄がある。俺は百六十九センチだ。
百七十という数字に、一センチだけ届いていない。二十九年間、この一センチのことを一度も気にしたことがなかった。婚活を始めて三ヶ月で、俺は自分の身長を憎むようになった。検索条件に百七十センチ以上という項目があると知った日の、あの感じは忘れられない。俺は最初のふるいの、網の目のところにいた。
将来のプランは、と聞かれて何も出てこなかった夜
年収の欄も書いた。書きながら、自分の値段を自分でつけている感覚があった。
パーティーで会った人に、将来のプランは、と聞かれたことがある。悪気はなかったと思う。当然の質問だ。でも俺は何も答えられなかった。転職するか迷っていて、五年後の年収なんて自分でも分からなかったからだ。黙った数秒で、相手の目の焦点が、俺の後ろに移った。あの目の動きを、その後の一年、何度も思い出した。
条件を並べて審査を受ける。それが婚活の仕組みだ。恋愛と決定的に違うのはここで、俺たちは自分を棚に並べている。並べるたび、自分で少しずつ値札を下げていく。もう少し年収が高ければ、と遠回しに言われたことのある男は、この感覚が分かると思う。
男が婚活で壊れる本当の理由は、失敗そのものじゃない
ここが、いちばん書きたかったところだ。
俺が限界を迎えたのは、フラれ続けたからじゃない。フラれたことを、誰にも言えなかったからだ。
まだ若いから大丈夫、と言われて、俺は口を閉じた
一度だけ、友人に打ち明けたことがある。婚活がしんどい、と。返ってきたのは、まだ若いんだから大丈夫だろ、という言葉だった。
励ますつもりだったのは分かる。悪気はゼロだ。でもあの一言は、こう聞こえた。お前がそんなに傷つくのはおかしい、と。痛みを否定されると、人は二度と口を開かなくなる。俺はその日から、婚活の話を人前で一切しなくなった。実家からの電話にも、まあまあかな、と嘘をつくようになった。帰省の回数が減った。
支えてくれる人を探す作業で傷ついているのに、その傷を話す相手がいない
婚活は、支えてくれる相手を見つけるための活動だ。その活動の過程で、人は傷を負う。ではその傷を、誰に見せるのか。本来なら、パートナーだ。でもパートナーは、まさにこれから探そうとしているものだ。まだいない。
女の同僚たちが、昼休みにアプリの話で笑い合っているのを見たことがある。ひどい相手に当たった話を、ネタとして共有していた。あれができるだけで、傷は半分になる。男には、あの場所がない。少なくとも俺の周りには、なかった。婚活で泣きそうになっていると口に出すことが、そもそも恥だと思っていた。
だから傷は全部、体の中に溜まる。溜まった分は、どこにも行かない。
涙が出た日と、そのあとにしたこと
ある水曜の朝、会社で単純なミスをやった。前の週にもやっていた。上司に呼ばれて、短く注意された。怒鳴られたわけでもない。それだけのことだ。
帰りの電車で、つり革を握ったまま、涙が出てきた。止まらなかった。周りに人がいるのに、どうやっても止められない。二十分ぐらい、そのまま立っていた。三十四歳の男が、通勤電車で泣いている。自分でも意味が分からなかった。婚活で泣くとは思っていなかった。
翌日、有給を取った。眠れていないこと、朝起きられないこと、仕事でミスが増えていることを、病院で正直に話した。休んだほうがいい、と言われた。婚活のせいで体を壊しました、と口に出すのは、思っていた百倍恥ずかしかった。それでも、言ったほうがよかった。
削除と再インストールの往復が、いちばん心を削る
その前にも、アプリを消したことは何度もある。でも一週間か二週間で、また入れていた。
消した瞬間に、脱落した、という感覚が来るからだ。同期はもう結婚している。友人の結婚式に、その年だけで四回出た。ご祝儀で十二万飛んだ。二次会には一度も行かなかった。誰かの家族写真を見るたび、自分だけがレースの外に立たされている気がして、また入れる。入れて、通知ゼロの朝を見て、また消す。
この往復が、実は一番きつい。休んでもいないし、進んでもいない。宙に浮いたまま消耗するだけだ。だから休むなら、期間を決めて、完全に離れたほうがいい。俺は三ヶ月と決めた。その間、アプリのことは考えないと決めた。半端に続けるより、はるかに回復が早かった。
そりゃそうだろ、と言われて救われた
休職中に、昔の先輩と会った。酒の席で、婚活ってこんなにしんどいものなんですか、と言った。
先輩は、そりゃそうだろ、と言った。それだけだった。人格を毎週採点されて平気なやつがいるかよ、と。
たったそれだけの言葉で、俺は少し呼吸ができるようになった。大丈夫だよ、でもなく、頑張れ、でもない。痛いのが当たり前だと認めてもらう。俺が一年半探していたのは、たぶん、これだった。婚活でメンタルをやられている男に必要なのは、アドバイスじゃない。しんどくて当然だと言ってくれる人間が、一人いることだ。
数えるのをやめた
復職して、半年経った。婚活は、月に何回かのペースで再開している。ただし、シートは作らなかった。
いいねを何回送ったか、もう分からない。返ってこなかった数も分からない。分からないままにしている。通知ゼロの朝は、今でもある。前ほど痛くない理由は、たぶん、それを数えていないからだ。数えなければ、記録は残らない。記録が残らなければ、自分の点数も出ない。
先週、母から電話があった。そろそろは、と聞かれた。以前なら、まあまあかな、と嘘をついていた。今回は、正直に言った。しんどいよ、と。母はしばらく黙って、それから、無理しなくていいよ、と言った。三十五年生きてきて、その言葉を母から聞いたのは、初めてだった。
電話を切ってから、しばらく台所に立っていた。相手はまだ見つかっていない。来年見つかる保証も、どこにもない。何ひとつ解決していない。ただ、しんどい、と言える相手が一人増えた。今のところ、俺の手元にあるのは、それだけだ。