結婚を決めたとき、お金の話を、ちゃんとした夫婦はどのくらいいるのだろう。
「愛があれば乗り越えられる」と思っていた人がいる。「なんとかなるだろう」と先送りにした人がいる。話し合ったつもりが、実は全然噛み合っていなかった、という夫婦も少なくない。
年収差のある結婚が珍しくなくなった時代に、「生活費をどう分担するか」という問いは、じわじわと関係の質を決める問いになっている。払える側・払えない側という非対称の構造は、最初は「些細なこと」に見えても、時間をかけて、相手への見方を変えていく。
この記事は、年収差のある結婚を経験した、あるいは現在進行中の4組への取材をもとにしている。夫婦それぞれの視点から、生活費の分担で何が起き、何がすれ違い、何が壊れかけたかを、できるだけ正直に引き出した。
人通りの少ない、住宅街の中の小さなカフェ。
窓から銀杏並木が見える席に、坂本さん(仮名・34歳・女性・看護師)は先に来ていた。コートを丁寧に畳んで、椅子の背にかけていた。
向かいに座ると、「今日、夫には取材に行くとだけ言ってきました」と言った。何の取材かは言わなかった、と。
「年収差の話って——夫婦でしてるようで、実は核心を避け続けてるんですよ。我が家の場合は」
ラテを両手で持ちながら、少し窓の外を見た。
「夫は私より年収が200万近く低くて。でもそれは最初からわかってたこと。わかってたのに——なぜこんなに、しんどくなるんだろうって、最近よく考える」
「お金の話をしたとき、初めて相手の本性が見えた」
——坂本さんが、生活費の分担について最初に話し合ったのはいつですか?
「入籍の2ヶ月前です。それまでは、なんとなく避けてた。夫のほうが稼ぎが少ないから、傷つけたくなくて。で、意を決して話し合ったら——夫が最初に言ったのが、『半々でいいんじゃない?』だったんですよ」
「半々。私の年収が450万で、夫が260万。手取りで言うと、月の差が7万円近くある。その状況で半々、って言われたとき——正直、ちょっと固まった。でも夫は悪意がなかったと思う。ただ、想像できてなかっただけで」
——そのとき、何と返しましたか?
「……その場では言えなかった。夫の顔を見たら、本気で何も考えてなさそうで。責める気にもなれなくて。『少し考えよう』って言って、その日は終わりにした」
「帰り道に一人でずっと考えてた。私が稼ぎが多いのは事実。でも半々にしたら、夫の可処分所得は私より月5万くらい多くなる計算で。それっておかしいよな、でもおかしいって言うのは私が心が狭いのかな——そのぐるぐるが、結婚前夜まで続いた」
「生活費の分担方式は、価値観の踏み絵である」
この取材を通じて一貫して感じたのは、生活費の分担を「どの方式にするか」という表面的な問いの奥に、もっと深い問いが潜んでいる、ということだった。
それは「この人は、お金をどういうものだと思っているか」「自分と相手の関係を、どんな構造として捉えているか」という、価値観そのものの問いだ。
「半々でいいんじゃない」という発言は、悪意の有無に関係なく、「収入の差は、生活費に反映しなくていい」という価値観の表明だ。「収入に応じて割合を変えよう」という提案は、「稼ぎの多い側が多く負担するのが公平だ」という価値観の表明だ。どちらが正しいわけではないが、どちらもその人の、お金と関係性への根本的な考え方を反映している。
問題は、この価値観のすり合わせを、多くのカップルが結婚前にしていないことだ。「愛し合っているから大丈夫」という前提が、お金の話を後回しにさせる。そして結婚後に初めて、相手の価値観と自分の価値観の乖離に気づく。
私はこれを「生活費の分担方式は、価値観の踏み絵である」と取材ノートに書き留めた。踏んだ結果が「一致」でも「不一致」でも、それは愛情の大きさとは無関係だ。でも、踏まないまま進むことが、最もリスクが高い。
年収差のある夫婦の生活費—実際の分担パターンと、その裏側
複数の取材と当事者への聞き取りから、年収差のある夫婦の生活費分担には、大きく4つのパターンが浮かんでくる。
均等割りパターン
生活費を完全に折半する。シンプルで「平等」に見えるが、収入差がある場合、低収入側の生活を圧迫しやすい。坂本さんの夫が最初に提案したのがこれだった。
後述するが、均等割りは「お金の平等」を実現しているように見えて、実際には「生活の質の格差」を固定化する側面がある。
収入比例パターン
それぞれの収入比率に応じて生活費を分担する。たとえば収入比が6:4なら、生活費の負担も6:4にする。理論的には最も公平に見えるが、「毎月細かく計算する手間」と「常に収入差を数字で突きつけられる感覚」を嫌う夫婦も多い。
担当制パターン
家賃・光熱費は夫、食費・日用品は妻、というように、支出項目ごとに担当を決める。一見シンプルだが、「担当外の支出が生じたとき誰が払うか」が曖昧になりがちで、後で揉める原因になることがある。
生活費一本化パターン
二人の収入を一つの口座に入れ、そこから生活費を出す。お互いのお小遣いだけ別管理にする方式。収入差が見えにくくなる反面、「稼いでいる側の裁量が奪われる」と感じるケースもある。
坂本さん夫婦は、最終的に収入比例パターンに近い形に落ち着いた。ただし「計算が面倒だから、夫7万、私13万を共同口座に入れる形」にしたと言った。
「数字として見ると、私のほうが多く払ってる。でも今はそれが正解だと思ってる。ただ——これを決めるまでに3ヶ月かかったし、2回泣いた」
「割り勘にしたら、じわじわと壊れた」——均等割りの、静かな落とし穴
埼玉在住の西田さん(仮名・37歳・男性・会社員)は、年収が妻より150万高い。結婚当初、妻の強い希望で生活費を完全折半にした経験を持つ。
待ち合わせた駅前のファミレスに、仕事帰りのスーツで来た。注文もせずに「ここでいいですか」と言って座った。
「妻は自立心が強い人で。誰かに頼るのが嫌いで。だから結婚前に『生活費は半々にしたい』って言われて、俺はそれでいいと思った。むしろ、かっこいいな、って」
——それがどうなりましたか?
「2年くらいは問題なかったんですよ。でも妻が体調を崩して、仕事を週3日に減らした時期があって。収入が3割近く落ちたのに、折半の取り決めはそのままで。妻は自分でなんとかしようとして、食費を極端に切り詰めて、服も買わなくなって——ある日、妻が着てる服を見たら、全部3年以上前のものだって気づいて」
「それで初めて、俺は何をしてたんだって思って。妻が我慢してることに、全然気づいてなかった。妻は言わないし、俺は見てなかった」
——妻に話しかけたとき、何と言われましたか?
「……『言うと負けた気がするから、言いたくなかった』って。その言葉が、ずっと引っかかってる。俺との関係で、妻が『負け』を意識してたんだ、って。対等でいたかっただけなのに、割り勘という形式が、どこかで二人の関係を競争みたいにしてたのかもしれない」
西田さん夫婦は今、妻の収入が戻った後も、収入に応じた分担に変えた。「遅かったけど、今のほうが明らかに家の空気が違う」と言った。
お金の話で「相手が変わった」——具体的な証言
大阪在住の畑中さん(仮名・32歳・女性・フリーランスデザイナー)は、夫より年収が100万ほど高い。結婚3年目で、生活費の話し合いがきっかけで夫への見方が変わった経験を持つ。
Zoomで話してくれた彼女は、背景に観葉植物が並んでいた。話し方は明るかったが、ある話題になると急に声が低くなった。
——生活費の話し合いで、夫への見方が変わったとはどういうことですか?
「結婚前から、私のほうが稼いでることは二人ともわかってた。で、結婚してから初めてちゃんと話し合ったとき——夫が言ったのが、『俺はどうせ稼げないから、好きにしていいよ』だったんですよ」
「その一言で、なんか冷えた。自虐に聞こえるけど、私には『お前が決めろよ』に聞こえて。生活費の話し合いから逃げてる、って感じがして。最初の話し合いの時点で、夫が思考停止してた」
——その後、どうなりましたか?
「結局、私が全部決めた。食費の予算も、貯蓄の割合も、保険も。夫は全部『それでいい』って言う。最初は効率がいいと思ってたけど——半年くらい経ってから、急に虚しくなって。私、この人の家政婦みたいじゃないか、って」
「夫は悪い人じゃない。ただ、お金の話から逃げる。それが今も続いてる。来月、また話し合おうって言ってるけど——正直、どこまで変わるか、わからない」
年収差婚を乗り越えた夫婦・壊れた夫婦——分岐点はどこか
四組目の取材は、都内在住の吉川夫妻(仮名・夫41歳・妻38歳)。夫の年収が妻より300万以上高い。結婚10年目で、一度大きく揉めたが、今は「落ち着いてる」と言う。二人一緒に話してもらった。
珍しいケースだったが、二人の話し方は穏やかで、お互いの言葉を補い合うようなリズムがあった。
——一度大きく揉めた、というのはどんなことでしたか?
夫:「結婚して4年目に、妻が仕事を辞めて。家事・育児に専念してもらうことになったとき、生活費の渡し方で揉めた。俺が毎月決まった額を渡す形にしたんだけど、妻が『足りない』と言い始めて」
妻:「足りないというより——毎月、夫に言いにくくて。追加でほしいとき、なんか申し訳ない気持ちになって。それがだんだん、みじめになってきて。専業主婦って、こんなに立場が弱いのかって」
夫:「それを妻が言ってくれるまで、俺は全然わかってなかった。生活費を渡してるから十分だろうって、思ってたわけじゃないけど——妻がどう感じてるか、考えてなかった」
——どうやって解決しましたか?
妻:「夫が、共同口座を作って、給料の全部をそこに入れる形にしてくれた。私も家計を全部見えるようにして。そうしたら、申し訳ない感じがなくなった。自分も稼いでる感覚が戻ってきた、というか」
夫:「俺は最初、全部見られるのが少し嫌だったんですよ、正直。でも妻の『みじめ』って言葉が、頭から離れなくて。俺の管理欲より、妻の尊厳のほうが大事だって思ったら、抵抗がなくなった」
この夫婦が乗り越えられた理由は、方式ではなく「妻がみじめだと感じていた」という事実を、夫が受け取れたことにある、と私は思った。
生活費の話し合いで「やってはいけないこと」
複数の取材から見えてきた、年収差のある夫婦が生活費を話し合うときに、関係を壊しやすいパターンをまとめておく。
「どうせ俺には無理」「好きにしていいよ」という思考停止 畑中さんの夫がそうだったように、稼ぎが少ない側が思考停止すると、全ての決定が相手に集中する。それは「丸投げ」であり、長期的に相手を消耗させる。
収入差を「恩着せ」に使う 「俺のほうが多く払ってるんだから」という言い方は、相手の尊厳を削る。坂本さんは「夫がそれを言ったことは一度もないけど、言われたら終わってた」と明言した。
一度決めたルールを、状況が変わっても見直さない 西田さん夫婦がそうだったように、最初に決めた「折半」が、収入状況の変化に対応していなかった。生活費の分担は、一度決めたら終わりではなく、定期的に見直すべきルールだ。
「お金の話=愛情の薄さ」と思い込む 「打算的みたいで嫌」という感情から、お金の話を避けるカップルは多い。でも取材した全員が口を揃えて言ったのは——「もっと早く、ちゃんと話しておけばよかった」だった。
最後に「3万円の差が、3年で溝になった」の意味
冒頭の坂本さんが、帰り際に付け加えた話を書いておく。
「結婚してから今まで、夫とお金の話をするたびに、少しずつ夫への見方が変わったんですよ。悪い方向に、ということじゃなくて——より現実的になった、という感じ。愛してる、の解像度が上がった感じ、というか」
「夫は稼ぎは少ないけど、家事を分担してくれるし、私が疲れてるときは先に気づいてくれる。それは、お金では測れないこと。でも同時に、お金の問題を正面から考えることを、今でも少し避ける癖がある。それが、たまにしんどくなる原因で」
「月3万円の差って、最初は小さいと思ってた。でも3年経つと、決断の重さが変わってきた。どこに住むか、子どもを持つか、親の介護がいつか来たとき——そういう話のたびに、お金の非対称が顔を出してくる。3万円の差が、3年で溝になってく感じ」
「溝、って言い方をしたけど——溝を埋めようとするか、溝を認めたうえで橋を架けるか、それだけの違いだと、今は思う。消えない差はある。でも、消えない差があることと、仲良く生きられないことは、別の話だから」
年収差のある結婚で生活費をどうするか、という問いに、正解の方式はない。均等割りが正解の夫婦もいる。収入比例が正解の夫婦もいる。一本化が正解の夫婦もいる。
でも、どの方式を選ぶかより——その話し合いの中で、二人がどう向き合ったか。相手の「みじめ」に気づけたか。思考停止しなかったか。収入の差を、尊厳の差にしなかったか。
それだけが、最終的に関係を守るかどうかを決める。
坂本さんは今日も、夫より多く共同口座に振り込む。その事実を、彼女はもう特別視していない。「それが今の私たちの形だから」と、静かに言った。
銀杏並木の葉が、窓の外で揺れていた。