最初に会った時、何も感じなかった。
ときめきもなく、心臓が鳴ることもなく、ただ「この人と話すと肩の力が抜ける」とだけ思った。
友達に運命の人って感じと聞かれて、答えに困った。ドキドキはしないけど、この人といると安心すると正直に言ったら、友達はそれが本物かもよと言ってくれた。
その言葉の意味が、5年経った今、ようやく分かってきた。
傘を半分貸してくれた夜も、心臓は鳴らなかった
代官山のカフェ。休日の午後、沙織は結婚5年目の夫との出会いを語った。32歳、会社員。
「職場で知り合って、最初は普通の人だなって思っただけだったんです」
沙織は当時、派手な恋愛を繰り返していた。元彼たちはいつも最初に強いときめきがあって、連絡が来るたび心臓が鳴った。でも3ヶ月もすると疲れて別れていた。
「今の夫と話すと時間があっという間に過ぎるんです。沈黙があっても気まずくない。むしろ心地いい」
雨の夜、傘を忘れた沙織に、彼は自分の傘を半分貸してくれた。
「あの時もドキドキはしなかった。ただ温かいなと思っただけで」
沙織は結婚を意識するのに半年かかった。
「派手な感情がないから、これは恋愛なのかって自信が持てなくて。でも今振り返ると、あのドキドキのなさが安定の証だったと思う」
子供が生まれて、夜泣きで眠れない夜に夫が代わって抱っこしてくれた。
「その姿を見て、この人を選んでよかったって改めて思いました。最初にドキドキがなかった人と、こんな感情になるとは思ってなかった」
ドキドキという感覚の正体
胸のドキドキは、不確かさから来ることが多い。相手が何を考えているか分からない。振り向いてもらえるか分からない。その不確かさへの緊張が、恋の高揚感として認識される。でも安心できる相手の前では、その緊張は生まれない。
沙織の友人、彩花は34歳。彼女は30歳手前で婚活を始めた。
「アプリで何人も会って、みんなドキドキしないから縁がないって諦めてたんです。でもある人と3回、4回と会ううちに、この人といると自分を偽らなくていいって気づいて」
彩花は続けた。
「ドラマみたいな運命の人を待っていたら、ずっと一人だったと思う。この穏やかな関係が、私たちの運命だった」
スペックは普通だけど、返事が来るとホッとした―気づいたら結婚を決めていた話
渋谷のカフェ。平日の夜、奈々は自分でも気づかなかった変化を語った。29歳、会社員。
「マッチングアプリで知り合った人で、正直スペックは普通で、ドキドキもなかったんです」
でも返事が来るたびに、少し安心した。
「待ち遠しいとか、ドキドキするとかじゃなくて、ただホッとするんですよ。あれ、これって何だろうって思って」
奈々はしばらく、その感覚の意味が分からなかった。
「恋愛感情じゃないのかなって思ってた。でも会うたびに、この人といると気楽だなって感じが積み重なって」
1年後、気づいたら結婚の話をしていた。
「後から振り返ると、ホッとする感覚って安心感だったんですよ。その安心感が少しずつ積み重なって、恋愛感情になってたんだと思う。でも最初は全然そう思えなかった」
少しずつ染み込んでくる感情の種類
雷が落ちるような出会いは記憶に残る。でも少しずつ染み込んでくる感情は、気づかないうちに深くなっている。その深さに気づく時、最初の平凡さがいかに豊かだったかが分かることがある。
奈々の同僚、健人は31歳。彼は職場の後輩と付き合い始めた時、恋愛感情というより家族みたいな安心感だったと言う。
「デートで手を繋いでも、昔のような高揚感はなかったんです。でも彼女の作るお弁当を食べたり、一緒に掃除をしたりする日常が、どんどん愛おしくなっていって」
健人は結婚後に考えが変わった。
「ドキドキしないと愛じゃないって思ってたんですよ、ずっと。でも今は、静かに寄り添う関係の方が時間が経つほど強くなるって分かった。激しい恋は燃え尽きやすかったんだと思います、俺の場合は」
「なんか懐かしい感じがする」という感覚―40代で再婚した女性の言葉
吉祥寺のカフェ。休日の午後、由美は再婚相手との出会いを語った。44歳、会社員。
「離婚歴があって、次の人を探すときは慎重だったんです。だからアプリでも、ドキドキするかどうかを基準にしてた頃もあって」
でもある男性と初デートをした時、感じたのはドキドキではなかった。
「なんか懐かしい感じがするんですよ。初対面なのに。過去の恋愛ではいつも不安や嫉妬があったのに、彼といるとそれがない」
由美は価値観が完全に同じではないことも知っている。意見が違うこともある。でも話し合えた。
「結婚して数年経った今、一緒に老いていくのが自然って思える。若い頃は胸が痛くなるような恋を運命だと思っていた。でも本当の運命の人は、胸が落ち着く人だった」
由美は少し遠くを見た。
「後悔してることがあるとすれば、もっと早くこの基準に気づければよかったかなって。でも離婚して傷ついて、それで初めて分かったことだから。遠回りに意味があったのかもしれない」
過去の恋愛の傷が教えてくれること
激しいドキドキは、多くの場合、不安定さと対になっている。その不安定さを恋愛だと思って追いかけていると、安定した関係を物足りないと感じてしまう。でも傷ついた経験が、その違いを教えてくれることがある。
由美の友人、麻里は39歳。彼女も長い婚活の末に同じことに気づいた。
「最初から穏やかな人を選べばよかったって思うこともある。でも若い頃は穏やかさをつまらないと感じてた。あの派手な恋愛の記憶があるから、今の静かな幸せが分かる気もして」
麻里は複雑な表情をした。
「どっちが正解だったかは、今でも分からない。ただ、今が満足だから、今は正解だったってことなんだと思う」
旅行先で体調を崩した時、ただそばにいてくれただけで涙が出た
恵比寿のバー。週末の夜、大輔は今の妻との出会いを語った。35歳、会社員。
「友人の紹介で会って、最初はいい人だけど恋愛対象としてピンとこないって感じだったんです」
毎週末に会ううちに、彼女の存在が生活の一部になっていった。
「旅行先で体調を崩したんです。彼女はただそばにいてくれただけで。でも涙が出てきて」
大輔は自分でも驚いた。
「なんで泣いてるのか分からなくて。でも後で考えたら、ただそこにいてくれることの重さを初めて実感した瞬間だったんだと思う」
大輔は続けた。
「運命の人って、雷が落ちるような出会いじゃないんだって、その時気づいた。少しずつ染み込んでくるものなんだって」
結婚して3年、子供が生まれた。毎日平凡だが充実している。
「ドキドキしなかった人が、今は一番会いたい人になってる。その変化が、自分でも不思議で」
沙織は今朝、夫の顔を見てただいると思えた。彩花は穏やかな毎日を、これが運命と呼んでいる。奈々は返事のたびにホッとする感覚が、愛情だったと分かった。由美は一緒に老いることが自然に感じられる。大輔は旅行先の涙を、今も忘れていない。
運命の人は、最初から派手に現れないことがある。むしろ、いつのまにかそこにいる。
沙織は最後にこう言った。
「朝起きて顔を見るだけで、今日もこの人と一緒にいられるって思う。それが、私にとっての運命の形だったんだと思います。最初にドキドキがなくて良かったのかもしれない。あのドキドキがなかったから、今のここに来られた気がして」
彼女はコーヒーを飲み干し、席を立った。外は静かな夜だった。帰ったら夫が待っている。それだけで、十分だった。