来月末でいなくなる、と知った瞬間から時間の進み方が変わる。あと何回シフトが重なるかを数え始める。好きな人の退職でもう会えない状況を七人に、最後の日に何を言ったかを聞いた。ほぼ全員が、当たり障りのない一言で終わっていた。
聞き取りは職場から離れた場所を指定された人が多かった。二人は自分の勤務先の最寄り駅を避けた。理由は聞かなかったが、話を聞いていくうちにわかった。この記憶は、今も同じ建物の中に置いてあるからだ。
距離が縮まった直後に、終わりが決まる
やっと話せるようになった矢先だった
二十六歳のアオイさんは、同じフロアの先輩に片思いしていた。
「毎日少しずつ話せるようになってきて。最初は業務連絡だけだったのが、天気の話とか、昼に何食べたとかまでいくようになって」
いい流れですね。
「いい流れでした。やっと距離が縮まってきたと思ってた矢先です」
何がありました。
「先輩が突然、退職を発表して。家庭の事情らしくて、来月末でいなくなるって」
聞いた瞬間は。
「情けなさが来ました。悲しいより先に。私、何やってたんだろうって」
猶予は一ヶ月あった。
「ありました。何もできなかったですけど」
送別会は。
「行きました。普通に笑顔で、お疲れ様でしたって言って終わりです。それだけ」
連絡先は。
「聞けなかったです。あの場で聞く勇気がなくて。完全に縁が切れました」
その後は。
「先輩の席が空いてるのを見るたびに、胸が締めつけられて。あれ、しばらく続きました」
期限が切られると、動けなくなる人がいる
締切があれば行動できる、というのは半分嘘だと思う。七人のうち、猶予期間を使って何かをした人は一人だけだった。
理由は、猶予が同時に最終判定の日程を意味するからだ。それまでは、いつか話せるかもしれないという状態が続いていた。退職日が決まった瞬間、その曖昧さが消える。残り時間の中で動けば、結果が確定する。動かなければ、結果が出ないまま終わる。
判定を受けるより、未確定のまま終わらせる方を選ぶ人がいる。しかもその選択は、勇気がなかったという形でしか本人に記録されない。
三十四歳のミサキさんの場合、知らされ方も間接的だった。
「本人からじゃないんですよ。周りの噂で、もう来週で最後らしいよって」
一週間しかない。
「なかったです。急に焦って、どこかでご飯でもって誘おうと思ったんですけど」
言えましたか。
「言えなかったです。結局、普通の業務連絡だけで終わりました」
退職後は。
「SNSで繋がろうかと迷いました。何日も。でも既読無視されるのが怖くて、結局何もしてないです」
今は。
「今でも、あのとき何か言えばよかったって思います。何回も」
最後の日に、全員が同じ種類の言葉を選んだ
三十一歳のケンタさんは、バイト先の話をしてくれた。
「シフトが合う日を楽しみにしてました。それだけが目的で入ってた時期もあります」
いつ知りました。
「偶然です。彼女が店長に、来月で辞めますって報告してるのを聞いてしまって」
そのとき。
「頭が真っ白になりました。聞いちゃいけないものを聞いた感じもあって」
最後の勤務日は。
「彼女が、ありがとうございましたって笑顔で言ってくれて」
何を返しましたか。
「元気でね、です」
本当は。
「好きだって言いたかったです。ずっと。でも出てきたのが、元気でね」
彼はそこで少し笑ったが、目は笑っていなかった。
「あのあとも同じ店に通いました。何回か。当然もういないんですけど」
二十八歳のユウトさんも、ほぼ同じ形だ。同じ部署の先輩が、結婚を機に退職した。
「送別会でみんなで写真撮って、メッセージカードも書いて。でも俺だけ特別なことを言えなくて」
彼女は何と。
「また遊びに来てねって言ってくれました」
それに対して。
「お体に気をつけて、です」
言ってから。
「言った直後に、あ、間違えたって思いました。あれ、もう来ないでくださいって言ってるのと同じでしょ」
七人が最後に選んだ言葉を並べると、お疲れ様でした、元気でね、お体に気をつけて、ありがとうございました。全部、誰に対しても言える言葉だ。
意図的に無難な言葉を選んでいるのではない。特別なことを言おうとすると、そこで自分の気持ちが露見する。露見を避けようとすると、無難な語彙しか出てこない。だから、最も気持ちが強い相手に対して、最も一般的な言葉が出る。
挨拶する機会すらなかった人
三十七歳のリエさんの話は、少し違う痛み方をしている。
「体調を崩して、しばらく休んでたんです。で、久しぶりに出勤したら」
いなかった。
「いなかったです。いつの間にか退職してて」
誰かに聞きましたか。
「聞きました。でも誰も詳しいことを教えてくれなくて。もういないよ、って言われただけ」
お礼も言えなかった。
「言えてないです。最後の挨拶も。急に会えなくなりました」
その後わかったことがあると。
「仕事で悩んでたときに、彼が助言してくれたことがあったんです。それがきっかけで、彼自身も退職を考え始めたらしいって、あとから聞いて」
どう受け止めました。
「自分の一言が原因だったのかと思うと、余計に苦しくなりました」
それは彼女のせいではないと思う、と私は言った。
「わかってるんですよ。頭では。ただ、確認する手段がないので。永遠に確認できないんです、これ」
気持ちが薄れていくことにも、痛みがある
二十四歳のナナミさんは、カフェのアルバイトで常連客に好意を持っていた。
「毎週、決まった曜日に来る人で。注文もいつも同じで」
話したことは。
「ほとんどないです。注文と、ありがとうございましたくらい」
それでも好きだった。
「好きでした。その人が来る日は、シフトを代わらないようにしてました」
いつ知りましたか。
「実は来月でここを卒業するんです、って他の店員に話してるのを聞いて。近くに引っ越すとかそういう話だったと思います」
最後の来店日は。
「いつも通り注文を受けました。心の中では、もう会えなくなるんだって繰り返してて」
何か言えましたか。
「何も。会計のときに少しだけ目が合って、笑顔を返してくれて。それだけです」
そのあとは。
「同じ時間帯に出勤しても、もう来ないんですよ。当たり前ですけど」
今はどう思っていますか。
彼女は少し黙った。
「気持ちが、だんだん薄れていったんです。半年くらいかけて」
それは楽になったということですか。
「楽になったんですけど、それはそれで、なんか、寂しくて。あんなに好きだったのに消えるんだって」
消えていく過程を見ていた。
「見てました。自分の気持ちが減っていくのを、他人事みたいに眺めてる感じでした」
渡す側にも、後悔が残っている
三十二歳のタクミさんだけ、立場が逆だった。
「転職を決めたとき、同じ部署の好きだった同僚にどう伝えるか悩みました」
告白する予定はあった。
「なかったです。全然。ただ、もう会えなくなると思ったら、急に未練がましくなって」
どうしました。
「最後の日に、何かあったら連絡して、って言って番号を渡しました」
彼女の反応は。
「笑顔で受け取ってくれました。ちゃんと」
連絡は。
「来なかったです。一度も」
彼はそこで、一度天井の方を見た。
「あれ、今考えると、判断を全部相手に投げたんですよね。俺が何も言わないまま、番号だけ渡して。向こうからしたら、どう扱っていいかわからないでしょ」
言えばよかったと。
「思います。ただ、言ってたら言ってたで、別の後悔があった気もします」
渡す側になってわかったことは。
「受け取る側は、意外と何も気づいてないってことです。俺、番号を渡すのに一週間悩んだんですけど、向こうにとってはただの連絡先交換だったと思うので」
空いた席が、しばらく残る
七人の話で共通していたのは、退職の後にも職場が続くことだった。
アオイさんは空席を見続けた。ユウトさんは職場の空気が変わったと感じ、仕事のやる気にまで影響したという。ケンタさんは辞めた後の店に何度も通っている。
失恋と違うのは、日常の構造が変わらないまま、そこから一人だけ消える点だ。同じ椅子、同じ時間、同じ業務。全部そのままで、一箇所だけ空く。だから毎日、その空白を確認することになる。
アオイさんに最後に聞いた。今もその職場にいますか。
「います。三年目です」
先輩の席は。
「別の人が座ってます。二回替わりました」
もう平気ですか。
「平気です。もうほとんど思い出さないので」
彼女はそう言ってから、少し間を置いた。
「ただ、あの人がどうしてるかは、たまに考えます。元気だといいなとか、その程度なんですけど」
連絡を取る方法は。
「ないです。名前も、下の名前は知らないままだったので」
窓の外は昼過ぎの明るさで、通りをスーツの人が何人か歩いていた。彼女は時計を見て、そろそろ戻りますと言って立ち上がった。