朝の七時十二分に、頑張ってね、と送った。既読はつかない。
八時。まだつかない。ここまでは何の問題もない。彼女はその日、朝から夜までイベントの運営で、スマホを触る余裕なんてないと、前日にちゃんと聞いていた。理由も、時間帯も、全部知っていた。
知っていたのに、九時を過ぎたあたりから、僕の中の何かが静かに狂い始めた。
普段、スマホの充電は一日一回で足りる。その日は三回した。何かをしていたわけでもない。ただ、画面を点けて、消して、また点けていた。それだけで、一日分のバッテリーが二回分、余計に溶けた。
理由を知っていても、不安は来る
これが、あの一日でいちばん堪えたことだ。
連絡が来ない理由を事前に共有しておけば安心できる、という話をよく見る。半分は本当だと思う。でも僕は理由を知っていた。彼女が悪いわけでも、僕を軽んじているわけでもないと、頭では完全に分かっていた。それでも不安は来た。
不安は、情報不足から生まれているんじゃない。ここを取り違えると、何年でも同じことを繰り返す。
音を消したら、三分おきに自分で確認するようになった
十時ごろ、通知が鳴るたびに反応してしまう自分が嫌になって、マナーモードにした。これで少しは楽になるはずだった。
逆だった。音がしないぶん、自分から確認しに行くようになった。三分おきくらいに、ロック画面を点ける。何もない。消す。また点ける。手を封じたつもりが、封じられたのは耳だけだった。
心配しているふりをして、僕は点呼を取っていた
十二時四十分に、二通目を送った。無理しないでね、という文面。
自分では、気遣いのつもりだった。今なら分かる。あれは気遣いじゃない。点呼だ。
大丈夫が欲しかったわけじゃない
僕が確かめたかったのは、彼女の安否じゃない。無事であることは、九割九分、疑っていなかった。会場で倒れているとも、事故に遭ったとも、本気では思っていない。
じゃあ何を確認したかったのか。僕の位置だ。彼女の一日のなかで、僕がまだ何番目かに入っているかどうか。返信が一通でも来れば、それが証明される。忙しいさなかに僕へ一言送るということは、僕はまだ上のほうにいる。そういう計算を、心配という顔をしてやっていた。
認めるのは、正直きつい。ただ、一日中スマホを握っていた男の頭で動いていたのは、愛情でも心配でもなく、順位の確認作業だった。
二通目を送った瞬間、こちらの不安が向こうの荷物になる
十六時に、三通目を送った。大丈夫、とだけ。押した直後に、まずい、と思った。
一通目は応援だ。二通目は、気遣いの形をした確認になる。三通目まで来ると、もう隠せない。返事をよこせ、という圧が、文面の裏からはっきり滲む。そして受け取る側は、それを必ず察知する。疲れきって帰ってきた人間がスマホを開いて、返信を求める未読が三つ並んでいるのを見る。そこで湧くのは、愛おしさじゃない。負担だ。
僕は、自分で処理しきれなかった不安を、彼女の荷物に載せようとしていた。
沈黙はゼロ情報だから、脳が勝手に物語を書き始める
夕方から夜にかけて、僕の頭のなかでは映画が上映されていた。
イベントが長引いているだけ、というつまらない筋書きから始まって、疲れて寝てしまった、に移り、そのうち、実は他に好きな人ができていて、今日一日かけて別れの言葉を練っている、というところまで行った。三本くらい観た。
なぜ、必ず最悪の筋書きを選んでしまうのか
沈黙という同じ材料から、良い想像だってできるはずだ。なのに、ほぼ確実に悪いほうを選ぶ。
僕なりの答えはこうだ。あれは予行演習をしている。最悪の展開を先に頭のなかで通しておけば、本当にそれが来たときの衝撃が減る気がする。傷を先に払っておけば、本番が軽くなる。そういう計算が、意識の下で勝手に走っている。だから止めようとしても止まらない。あの想像は、苦しむための行為ではなく、守るための行為だからだ。
厄介なのは、この先払いに返金がないことだ。
二十三時四十分に、長い謝罪が届いた
十一時を過ぎて、部屋にいられなくなった。外に出て、当てもなく歩いた。三十分ほど歩いて、自販機の前で立ち止まって、結局何も買わずに引き返した。
戻った直後だった。長めのメッセージが来た。一日中バタバタしていてスマホを触る余裕がなかったこと。イベントが無事に終わったこと。返せなくてごめん、ということ。ごく普通の、誠実な文面だった。
安心した。すぐあとに来たのは、恥ずかしさだった。この一日、僕は何をしていたのか。課題は一行も進まなかった。同じ段落を四回読んで、四回とも頭に入らなかった。先払いした絶望は、当然、一円も戻ってこない。丸一日が、まるごと消えた。
返信の速さを、愛情の計器にしていた
なぜあれほど苦しかったのかを、何日もかけて考えた。
彼女が署名していない契約書
僕は勝手に、返信の速さと愛情の量を、同じ物差しに載せていた。早く返ってくれば愛されている。遅ければ冷めた。
このレートを決めたのは、僕だ。彼女は一度も同意していない。彼女にとってLINEは連絡の手段であって、心拍計じゃない。返信の速度で気持ちを測定されているなんて、たぶん想像したこともない。
彼女が署名していない契約書を一人で握りしめて、僕は勝手に契約違反を宣告していた。恋愛の依存めいた苦しさの正体は、だいたいこれだと思う。相手が知らない規則で、相手を採点している。
向こう側には、ドラマがひとつもない
仕事で丸一日スマホを見られなかった、という女性の話を聞いたことがある。締め切りが重なって、朝からデスクに張りついていた。夕方に一度だけ画面を見たら、恋人から、連絡来ないけど大丈夫、というメッセージが入っていて、心底驚いたという。
彼女の側には、物語が一本もなかった。距離を置いたわけでも、罰を与えたわけでもない。忙しかった。それだけだ。
僕らが一日がかりで上映している映画は、相手のスクリーンには一秒も映っていない。
本当に危ないのは、一日という長さじゃない
とはいえ、無連絡がすべてただの偶然かというと、そうでもない。
単発の一日と、続いていく一日は、別のもの
友人のひとりは、連絡の来ない日が増えていって、最終的に別れた。ただ、彼が参ったのは無連絡そのものじゃない。何度話し合っても、忙しい、という同じ答えが返ってきて、会う頻度も落ちて、それでも話し合いが毎回なかったことになっていく。壊れたのはそこだ。
見るべきは、一日という長さじゃない。頼んだあとに何が変わるか、のほうだ。単発の一日は、九割方、本当にただの一日でしかない。
待っている間は、指を封じる
待ち方に根性論を持ち出すつもりはない。僕に唯一効いたのは、手を物理的に塞ぐことだった。皿を洗う。風呂に入る。走りに行く。指がスマホに触れられない状態を、無理やり作る。気持ちを落ち着けてから手を止めるんじゃない。先に手を止める。順番を逆にすると、たぶん失敗する。
一言だけ送ってほしい、と頼むのは重い要求なのか
数日後、彼女に話した。ここの言い方を、僕は一度しくじりかけている。
責める形と、自己申告の形
最初に浮かんだのは、連絡がないと不安になる、という言い方だった。口に出す直前でやめた。事実の報告に見えて、中身は責任の押しつけになるからだ。不安にさせたのは君だ、という含みが、どうしても入る。
代わりに言ったのは、こうだった。僕は勝手に不安になるタイプの人間で、それは君のせいじゃない。だから忙しい日は、朝に一言、今日は無理、とだけ送ってくれると助かる。
彼女は少し驚いた顔をして、そんなことでいいの、と言った。それ以来、忙しい日は朝に短い一行が来る。それだけで、僕の一日は壊れなくなった。要求のサイズが小さいほど、相手は応じやすい。当たり前の話だが、あの日の僕にはまるで見えていなかった。
あの夜、長い謝罪の文面を読んだとき、僕が最初に感じたのは安心じゃなかった。一瞬、腹が立った。こっちは丸一日、頭のなかで最悪の映画を三本も上映していたのに、向こうにはドラマがひとつもなかったからだ。彼女は忙しくて、疲れて、それだけだった。あの一日は、僕が一人で作って、一人で観て、一人で泣きそうになっていた。誰も参加していない。この非対称が、いちばん惨めだった。
この感情のことは、彼女に言っていない。言う予定もない。今でも、返信が半日来ないと、僕の親指は勝手に動く。通知バーを、意味もなく上から引き下ろす。何も来ていないことを確かめるためだけの動作だ。あの癖は消えていない。ただ、充電の回数は二回に減った。一回減ったことを進歩と呼んでいいのかどうか、まだ決めかねている。