彼が悪いわけじゃない。優しいし、誠実だし、大事にしてくれている。それでも別れたい。しかも理由が、本人にはどうにもできない部分。六人に会って、私は最低かどうかの判定はできなかった。ただ、この件で人が壊れる順番だけははっきりわかった。
火曜の夜、駅から歩いて十二分の場所にある古い喫茶店。カウンターの奥でサイフォンがぼこぼこ鳴っていて、店主のラジオが小さく野球中継を流している。ナナさんは席に着くと、上着を脱がずに、テーブルの端に置いたスマホを一度伏せた。三年つき合った彼と別れたのが去年の十一月。理由は言えないまま終わったという。
気にしていなかった、が崩れた日付
友人の一言、その日は九月の土曜だった
ナナさん、27歳。彼は自分より4センチ低かった。
最初の一年は本当に何も思わなかったんです。むしろ、目線が近いから話しやすいなって。彼、笑い方が可愛くて、それが好きだった。
変わったのは友人四人と会った夜だという。
居酒屋のトイレの前で、そんなに小さい彼氏でいいの、って軽く言われました。悪気なんて一ミリもない。相手も笑ってたし、私も笑い返した。その場では本当に何とも思わなかったんですよ。
問題は翌週だった。
彼と歩いてるとき、急にその声が再生されるようになったんです。自分の耳で、自分の頭の中で。言われた日から数えて三日後には毎日でした。
他人の言葉は、視力になって残る
聞いた瞬間には効かない。数日遅れて、見え方そのものを変えてくる。
これがこの取材で最初に引っかかったところだ。ナナさんは彼を嫌いになっていない。ただ、彼を見る目に他人のレンズが一枚はさまった。以降、外すことができなかった。
写真がだめになりました。並んで撮ると、差が真っ先に目に入る。前は同じ写真を、二人とも笑ってるなとしか思わなかったのに。撮った写真をその場で削除するようになって、それを彼に見られた日が、たぶん一番きつかった。
好きなのに引っかかる、この矛盾はどこから来るのか
誠実な人ほど、逃げ場がなくなる
マユさん、31歳。相手は真面目で、一度も約束を破らなかった人だという。
欠点がないんですよ。だから困った。何か嫌なところがあれば、それを理由にできたのに。
彼女が気にしていたのは、並んで歩くときの周囲の視線だった。
すれ違う人が、こっちを一瞬見た気がする。実際に見てたかどうかなんてわかりません。たぶん誰も見てない。でも私は見られてる前提で歩いてた。彼と手をつないでる自分を、外から採点してるもう一人の自分がいる感じ。
デート中に何度も、もっと背が高ければ、と考えてしまったという。
そう思うたびに自分を殴りたくなりました。この人は何も悪くない。悪いのは全部私。なのに考えるのをやめられない。あの半年間は、彼と会うたびに自分が嫌いになる時間でした。
好きと、耐えられるは別の棚にある
好きだという感情と、その関係の中で暮らし続けられるかどうかは、別のところで動いている。取材した六人全員が、好きだったと明言した。うち五人が別れている。感情の量では決着がつかない領域があると、認めるしかない。
彼のコンプレックスが、関係を重くした
自虐の頻度は、週に四回
サヤさん、29歳。彼女のケースは少し違っていた。気にしていたのは彼の方だ。
自分から言うんですよ。どうせチビだしとか、俺と歩いてて恥ずかしくない、とか。週に四回は聞いてた気がします。
最初はフォローしていたという。そんなことないよ、と毎回言った。
三ヶ月くらいで疲れました。私が否定しても、彼の中では何も変わらないので。同じ会話を何十回もやってる感覚。だんだん、彼が自分を下げるたびに、私がそれを持ち上げる係になってた。
写真を撮るときの角度
決定的だったのは撮影のときの動作だという。
集合写真で、彼が必ず一歩前に出るんです。前に立てば大きく写るから。しかもそれをすごく自然にやろうとする。あれを見た瞬間、なんか、胸が詰まった。可哀想とかじゃなくて、私が見てはいけないものを見た気がして。
優しさまで、疑うようになった。
すごく優しくしてくれてたんです。でも途中から、これは埋め合わせなんじゃないかって思うようになって。身長の分を優しさで補おうとしてるんじゃないか、って。そう思った時点で、もうその優しさを素直に受け取れない。彼は何も悪くないのに、私が勝手に台無しにした。
自分を低く言い続ける人のそばにいると、聞いている側にその評価が移る。本人が下げた分だけ、隣にいる人の見え方も一緒に下がっていく。サヤさんが疲れたのは身長ではなく、この移動のほうだった。
高いところの物を取る、が積み上がった五年
一日に二回、五年で三千回超
リエさん、34歳。五年つき合って、去年別れた。
大喧嘩したことは一度もないです。むしろ仲は良かった。
彼女が挙げたのは、生活の細部だった。棚の上の鍋を取るのは自分。カーテンレールの掃除も自分。靴を選ぶときにヒールの高さを毎回考える。旅行先で写真を撮ってもらうときの立ち位置を先に決める。
一回ずつは、なんでもないんですよ。三秒で終わる。でも一日二回として、五年で三千回超えるんです。数えたことはないですけど、たぶんそのくらい。
結婚を想像した瞬間に切れた
三十を過ぎたあたりで、将来のことを考えるようになりました。それで、この感覚があと四十年続くのかって思ったら、すっと冷めた。冷めたっていうか、答えが出ちゃった感じ。
彼女は、身長だけが理由ではなかったとも言っている。
仕事の価値観とか、お金の使い方とか、他にもありました。でも一番先に浮かんだのが身長だったんですよ。それが今でも引っかかってます。他の理由の方が大きかったはずなのに、なんであれが最初に来たんだろうって。
目線の高さが変わっただけで、揺れた
職場の会議室、五分の立ち話
ホノカさん、28歳。会社の別部署の男性と、たまたま五分ほど話す機会があった。
180くらいある人でした。話してるとき、私が見上げてるんです。それだけ。会話の中身は仕事の引き継ぎで、まったく色っぽい話じゃない。
なのに、帰りの電車で彼女は動揺していたという。
こんなに印象が違うんだ、って思ってしまった。思った瞬間に、自分が嫌になりました。彼の性格が好きで付き合ってたのに、五分の立ち話で揺れる程度だったのかって。
比較したくないという気持ちと、比較してしまう頭が、同時に動いていた。
その日から一ヶ月くらい、彼に対して罪悪感で優しくしてました。優しくすればするほど、自分が汚く思えた。
別れの理由を、最後まで言えなかった
曖昧に終わらせた夜
ナナさんの別れ話は、十一月の日曜だったという。
彼の部屋で言いました。テレビがついたままで、消してって言えなくて、音がずっと流れてた。
理由を聞かれて、何と答えたのか。
将来が見えなくなった、みたいなことを言いました。嘘ではないけど、本当でもない。彼は、俺の何が悪かったのか教えてほしいって二回聞いてきました。二回とも、はぐらかしました。
言えなかった理由は、はっきりしている。
言ったら、あの人が一生それを抱えるから。直せないことを理由にされたら、次の恋愛にも持っていくでしょう。だから言えなかった。優しさのつもりでした。今は、ただの逃げだったと思ってます。
言わなかったことが、こちらにも残る
彼女はまだ引きずっている。
理由を言ってないから、私の中でも終わってないんです。彼が知らないことを、私だけが知ってる状態。あれ、けっこうきついですよ。荷物を一人で持ってる感じ。
伝えたら楽になるのか、と聞いた。
彼が壊れるだけだと思います。だから持っときます。
この検索をしている人が、実際に知りたいこと
気にする自分は最低なのか
六人全員が、自分を責めていた。その上で全員が、それでも気になった、と答えている。私が思ったのは、責める作業に費やした時間の長さのほうだ。マユさんは半年、リエさんは二年近く、自分は最低だと考え続けている。その期間、相手は何も知らないまま、いつも通りの日々を送っていた。責める側だけが消耗する構図になっている。
身長差は何センチから気になるのか
聞いた範囲では、自分より低い場合は数字が問題になっていなかった。ナナさんの相手は4センチ低く、マユさんは1センチ差。センチ数ではなく、並んだときに見えるかどうかで判断されている。ヒールを履くと逆転する、というラインが一番多く語られた。
周囲に言われて変わるのか
変わった、と四人が答えた。家族から遠回しに言われ続けたケースもある。もう少し条件のいい人がいいんじゃない、という言い方だ。最初は反発していても、同じ角度から何度も言われるうちに、自分の意見と他人の意見の境目がわからなくなる。ここが一番怖い部分だと思う。
別れたあと、後悔したのか
五人中三人が後悔していると答えた。ただし、戻りたいと言った人はゼロだった。後悔の中身は、別れたこと自体ではなく、伝え方や、悩んでいた期間の自分の態度に集中していた。
別れずに続いている人はいるのか
一人だけいる。サヤさんとは別の人で、今も三年目の交際が続いている。彼女の話で印象に残ったのは、彼がまったく気にしていないという点だった。自虐を言わない。写真の立ち位置も気にしない。すると、彼女の方も見なくなったという。彼女は、身長の問題は二人のうちどちらかが気にした瞬間に発生する、と言っていた。
消せない写真
ナナさんは、彼と撮った写真をまだ持っている。
削除しようとして、何回か開きました。でも消せない。あんなに写真が嫌だったのに、変ですよね。
ラジオの野球中継が、ちょうど何かの場面で音量を上げた。店主がチャンネルをいじって、また静かになる。彼女はコーヒーに口をつけて、カップを持ったまましばらく黙っていた。
私が一番思うのは、彼が今どこかで自分の背を気にしてたら嫌だなってことなんです。私のせいで気にするようになってたら、最悪だなって。でも確かめる方法がない。
じゃあ、と彼女は続けた。
じゃあ、私は何を反省したらいいんですかね。
サイフォンの湯がまた沸き上がる音がした。私は答えを持っていなかったし、たぶん持っていない方が誠実だと思った。彼女は伝票を先に取って、上着のポケットに畳んで入れた。