好きな理由を聞かれて、口が止まる。優しいところ、と言えば嘘ではないけれど、それなら他の人でもいい。条件のいい相手なら周りにいる。それでもその人がいい。言葉が出ない人と、出ないまま冷めた人と、出ないまま結婚した人がいた。分かれ目は、説明できるかどうかではなかった。
木曜の夜、繁華街の裏手にある小さな居酒屋。大根を炊く匂いと、控えめな有線。美咲さんは席に着くなり、この話、友達にはもうできないんですよ、と言った。理由を聞くと、聞かれるたびに答えられなくて、恥ずかしいので、と返ってきた。
説明できないまま、残っている人たち
欠点なら挙げられる
美咲さん、二十九歳、営業。
友達に、あの人のどこがいいの、って聞かれたんです。答えられませんでした。
欠点は挙げられるという。
いくらでも出ます。時間にルーズだし、返信も遅いし、記念日も覚えてない。
条件のいい人は周りにいないのか。
います。何人も。年収も、見た目も、性格も、上の人はいる。それでもその人じゃないと嫌なんですよ。
好きの理由を探しているうちに、と彼女は続けた。
探してる自分が、もう好き側にいるんだなって気づきました。嫌いな人の理由って、探さないので。
頭の中の占有率だけが増えた
遥さん、二十六歳、ホテル勤務。
いつもその人のことを考えてるんです。でも何がいいのかは言えない。
顔でも趣味でもないのか。
ないです。顔のパーツで好きなところを挙げろって言われても出てこないし、趣味も全然合わないので。
じゃあ何が起きているのか。
頭の中にいる頻度だけが増えていくんです。仕事中も、電車でも。好きかどうか聞かれると止まるんですけど、聞かれなくても占有率は高い。
当たり前が理由だと、薄く見える
カナさん、二十四歳、運輸。
なんで付き合ってるの、って聞かれて詰まりました。
なぜ詰まったのか。
いるのが当たり前になってて、理由を組み立てる必要がなかったんです。
その状態は外からどう見えるのか。
薄く見えると思います。実際、友達には、惰性じゃない、って言われました。
本人の感覚は違うのか。
私の中では一番重いものなんですよ。当たり前になるまでに二年かかってるので。
沈黙が、気まずいほど長くなった
翔太さん、三十一歳、メーカー勤務。彼は聞いた側だ。
俺のどこが好き、って聞いた夜のことを、よく覚えてます。
相手の反応は。
沈黙でした。気まずいくらい長かったです。
そのときどう思ったのか。
情けなかったですね。答えられないってことは、そこまでじゃないんだなって。
今はどう思っていますか。
言葉のほうが足りなかったんだと思ってます。全部、って言えば嘘になるし、一部を挙げると、それ以外は好きじゃないみたいに聞こえるので。答えようがない質問だったんですよ。
好みの設計図と、実際に残る人
恵さん、三十三歳、事務。
これまで好きになった人に、共通点が一個もないんです。毎回系統が違う。
タイプを聞かれたらどう答えるのか。
答えられないです。直感で合う人が好きになるので。
順番はどうなっているのか。
話してみて気が合うかどうかが先です。顔の好みは、後からついてくることもあります。
陸さん、二十八歳、販売。彼の場合は逆の混乱だった。
普段は一目惚れしやすいタイプなんですよ。だから今回、余計に混乱しました。
見た目が好みではない相手だったのか。
全然です。ほかにもいい人がいそうなのに、その人のことばっかり考えてる。
好みの設計図と、実際に残る人は別物なんだな、と彼は言った。
さやかさん、二十七歳、公務員。彼女が落ちたきっかけは小さかった。
困ってるときにさっと動いたんです。あと、運転が上手い。それと、パッとしない外見なのに歌がうまい。
理由としては弱くないですか、と聞いた。
弱いです。人に説明したら笑われました。でも、弱いまま気持ちだけ残ってるので。
ときめきより先に来ていたもの
直人さん、三十四歳、企画職。
ドキドキで選んでると思ってたんです。実際は居心地でした。気づいたのは遅かったですけど。
何で気づいたのか。
自分に質問してみたんです。会っていないときに会いたいか。相手が大変そうなときに、自分事になるか。一緒にいるとき、いい自分を演じてないか。会ったあとに疲れ切ってないか。
その結果は。
全部、居心地のほうを指してました。理由は出てこないのに、この人と付き合ったらどうなるかっていう想像だけは具体的なんですよ。
未希さん、二十五歳、保育。彼女は逆の順番で進んだ。
好きかわからないまま付き合い始めました。嫌いじゃないし、会いたくないわけでもない。これから好きになるかも、って思って。
始まってからどうなったのか。
欠点が見えてきて、恋愛として好きなのかが、また分からなくなりました。
安心感で進めた関係は、熱がないと責めやすいんです、と彼女は言った。
熱がなくても続く関係もあるんですよ。どっちも同じ言葉で語られるから、厄介なんです。
健さん、三十歳、IT。年の差のある相手との話だ。
人としては優しいんです。ただ、恋愛として好きなのかがわからなくて。
決まった場面はあったのか。
体調を崩して、予定を全部潰した日があるんです。相手は気にしてない素振りで、次に会ったときも同じ温度でした。
そこで何が起きたのか。
条件とか年齢とか、全部飛びました。この人でいいと思ったんです。
彼の総括が的確だった。
好きの理由って、うまくいったデートじゃなくて、うまくいかなかった日の扱われ方に出るんだと思います。
気づいた瞬間なら、覚えている
彩さん、二十八歳、デザイン。
好きになった瞬間を聞かれても答えられないです。ただ、気づいた瞬間なら覚えてます。
どんな場面ですか。
歩幅を合わせて、少し速く歩いてる自分に気づいたときです。あと、笑った顔をもっと見たいって反射してること。帰り道に、何気ない一言を何回も再生してること。最近どう、って聞かれて最初に浮かぶのがその人の顔だったこと。
ドラマみたいな出来事は。
何も起きてないです。コップに水が一滴ずつ溜まって、溢れただけでした。
浩さん、三十二歳、ライター。
店を見つけると、あの人好きそう、って思うようになったんです。
それはいつからか。
わからないです。気づいたらそうなってました。嬉しいことがあったとき、話したらどんな顔するかなって想像するし、前に聞いた話の続きも気になる。しばらく会わないと物足りない。
その時点では好きだと思っていなかったのか。
思ってなかったです。日常にその人が入り始めてる時点で、感情のほうは先に動いてたんですよね。
ななさん、二十九歳、美容部員。
自分は全然興味なかったものを、好きになったんです。相手が楽しそうにしてるので。
最初は付き合いで行ってた場所と、付き合いで聞いてた曲が、いつの間にか自分の景色になったという。
好きな人ができると、好きなものが一つ増えるんじゃないんですよ。その人が楽しそうにしてる時間まで、自分の側に入ってくるんです。
頭で探すと、離れていく
理沙さん、三十一歳、研究職。
なぜ好きなのか、なぜ嫌なのかを、すぐ言葉にしようとする癖があるんです。
その結果どうなったのか。
考えるほど本音から離れました。空気とか居心地って、身体が先に感じてるので。
具体的にはどんな失敗を。
理由はわからないけど惹かれる、っていう感覚と、なんとなく違和感がある、っていう感覚を、両方無視したんです。それで条件の正しい人を選んで、あとから息が苦しくなりました。
葵さん、二十二歳、学生。
恋愛経験が少なくて、比較する相手がいないんです。
どこで止まっているのか。
嫌いじゃない、好きかと言われると微妙、の間です。絶対に付き合いたい、までは行ってないので。
それを彼女は、こう解釈していたという。
達してないことを、偽物の印だと思ってました。好きの定義を持ってないのに、好きかどうかを採点してたんですよ。
陽子さん、三十六歳、医療事務。
過去の恋愛で傷ついてから、気持ちに名前をつけなくなりました。
気づかないふりをしていたのか。
してました。そのうち、本当に分からなくなったんです。
好きになってはいけない、が先に立つと、好きかどうかわからない、という形で出てくることがある。彼女はそう説明した。
迷ってる時点で、何かは気づいてるって言われたんです。あのとき、胸の奥が動きました。
理由がある好きと、ない好き
修さん、三十五歳、編集。
条件で好きになった相手ほど、説明がうまいんです。逆に、感性で好きになった相手は説明できない。
説明できないほうは、何が起きているのか。
声のトーンが落ち着く。笑うタイミングが心地いい。沈黙が怖くない。全部、相手の行動が特別なんじゃなくて、その人といる自分が楽になってるんですよ。
好きというより、と彼は続けた。
合う、に近いです。それが静かに積み重なると、いつの間にか恋になってる。派手さがないので、自覚が遅れます。ただ、根は深いです。
恵美さん、三十八歳、主婦。
家族とか友達を好きな理由も、説明できないんですよね。それに気づいて、楽になりました。
理由がある好きは危ういのか。
その理由が消えると、危ういと思います。スタイルがいいから好き、より、よくわからないけど好き、のほうが残ることがある。
彼女はそこを、こう言った。
いちばん深いところでは、わけもわからず人を選んでるんだと思います。
分からないまま進むのか、雑になるのか
一方で、理由がわからない好きを全部正しいことにするのは危険だ、という声もあった。
寂しさを埋めるための好きもあります、と修さんが言った。
相手をよく知らない段階の欲求もあるし、手に入るまでの熱もある。
見分ける方法は。
知ったあとも大切にしたいと思えるかどうかです。会いたい、触れたい、の奥に、相手の状態を見る目があるか。
分からないまま進むことはできる、と彼は続けた。
分からないまま雑になることもできるんですよ。そこは別なので。
付き合うかどうかで測る、という整理をした人もいた。
その人と付き合いたいと思うか。それが分からないなら好きじゃない、って割り切ると動きやすいです。
もう一人は、感情と設定を分けていた。
好きっていう感情は一時的なんです。好きっていう設定は定義です。設定した瞬間に、付き合うか、片想いを続けるか、失恋するか、の三択になる。
迷いが長いとどうなるのか。
相手の熱に合わせて、自分の気持ちを錯覚しやすくなります。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
説明できない好きは、薄いのか
十六人のうち、説明できないまま続いている人が九人いた。全員が、薄いという見方を否定した。むしろ理由がある好きのほうが、理由の消滅とともに崩れると指摘した人が複数いる。
何で確かめればいいのか
相手の属性ではなく、自分の状態を見る。会っていない時間に浮かぶか。相手の大変さが自分事になるか。演じずにいられるか。会ったあと空っぽになっていないか。距離を置こうとしたとき、胸が反応するか。
好きかわからないまま、付き合っていいのか
未希さんは進んで、また分からなくなった。健さんは進んで、うまくいかなかった日に答えが出た。どちらの例もある。ただ、二人とも進まなければ何も分からなかった点は同じだ。
好きになってはいけない相手の場合は
陽子さんの例がある。禁止が先に立つと、感情の名前が遅れて届く。分からないという形をとった禁止が、そこには混ざっている。
理由を探すと、どうなるのか
顔、仕事、優しさ、という部品の話になる。部品は褒めやすい代わりに、壊れやすい。残っている話の多くは部品ではなく、その人といる空気そのものだった。
溢れたコップの話
美咲さんは、いまもその相手と付き合っている。三年目になるという。
友達には、まだ答えられないままですか、と聞いた。
答えられないです。この前も聞かれました。
何と言ったんですか。
わかんない、って言いました。そしたら、大丈夫なの、って心配されて。
心配されるのはつらくないか。
つらくないです。ただ、説明できないと、心配される側になるんだなって思いました。説明できる恋のほうが、周りには安心されるので。
彼女はおしぼりを畳んで、端に置いた。
でも、周りが安心する恋と、自分が息をしやすい恋は、別なんですよ。私は後者を選んでるだけです。
大根の炊ける匂いが、まだしていた。店主が皿を出して、彼女は、あ、これ好きなやつです、と言った。理由は聞かなかった。たぶん答えられなかったと思う。