百点の相手がいないことは、もうわかっている。それでも、どこかを下げて決めた自分に烙印を押されている気がする。この検索をしている人が確かめたいのは、たぶん妥協の是非ではない。自分が下げた項目が、後で効いてくる種類のものなのかどうかだと思う。十二人に会った。下げた場所によって、五年後の温度がはっきり分かれていた。
日曜の午後、郊外のショッピングモールのフードコート。子どもの声とトレーを片づける音が混ざる。沙織さんは席に着いて、この時間しか空いてないんです、と言った。離婚の話をしに来たのに、彼女はまず、結婚を決めた夜の話から始めた。
この人でいいか、と言った夜
逃したら次がないと思った
沙織さん、三十八歳。相談所で活動していた。
年齢的に、ここで逃したら次がないと思ってました。
相手の条件は。
悪くなかったです。むしろ良かった。会話が弾む夜もありました。
決めるとき、何と言ったのか。
この人でいいか、って。口の中で転がしてました。声には出さなかったですけど、たしかにそう言ってました。
半年で離婚を決めた
結婚後はどうなったのか。
半年です。やっぱり合わない、会話がない、毎日が苦痛。それで決めました。
離婚してから気づいたことがあるという。
この人でいい、年齢的に仕方ない、条件がいいから。あれ全部、妥協の言い換えなんですよ。
納得している人はどう言うのか。
この人がいい、って言います。欠点も含めて愛せる、一緒にいて幸せ、とも。
彼女がいちばん引っかかっているのは、そこだ。
同じ相手でも、決めた夜の言葉が、あとから関係を裁くんです。私は自分の言葉に裁かれました。
焦って選ぶより、一人のほうがまし
同じ趣旨の話は、何人からも出た。
焦って選んだ相手と残りの人生を過ごすより、一人の時間のほうがましです、と四十代の女性が言った。
妥協して後悔する結婚より、続けてる婚活のほうが価値があると思ってます。
具体的な例を挙げた人もいる。
中途半端に妥協して地獄を見るくらいなら、独り身のほうがいいです。趣味の物を勝手に捨てる人と暮らすくらいなら、って本気で思います。
期待についての話も出た。
結婚したら良くなる、私が治してあげられる。そう思ってました。
その考えはどうなったのか。
友達が、九年付き合った相手と結婚して、一年もたなかったんです。それで粉々になりました。期待って、妥協の別名なんですよ。
下げてよかったもの
一位は容姿だった
既婚の女性たちに、下げてよかった項目を聞いた。最も多く挙がったのが容姿だ。次が服装やセンス。
毎日見る顔って、慣れるんですよ、と三十代の女性が言った。
三ヶ月くらいで気にならなくなりました。むしろ今は、この顔がいいと思ってます。
服装についても同じだったという。
ダサいのは直せます。というか、こっちが選べばいいので。
慣れないもの
一方で、慣れないものがある。
毎日払うお金と、毎日の皿と、毎日の沈黙です。これは慣れないです。
彼女の言い方が的確だった。
顔は毎日見るけど、判断がいらないんですよ。お金と家事は、毎日判断が要る。判断が要るものは、慣れないです。
下げてはいけなかったもの
経済力と、金銭感覚
下げなければよかった項目の一位は経済力だった。次が金銭感覚、家事への意欲と価値観、義実家との関係、そのあとに容姿が来る。
恋愛中は、愛情が先で、お金はなんとかなると思ってました、と三十代の女性が言った。
実際は。
生活が始まると、なんとかなる、が毎月の請求書になります。今月どうする、っていう会話が毎月ある。それが十年続くと思うと、けっこうきついです。
変えにくいものは、傷が深くなる
外側にある学歴、容姿、年齢、結婚歴は、年月が経つと気にならなくなることが多い。性格、経済力、金銭感覚、将来の考え方、居心地は、変えにくく、傷が深くなる。
見た目は慣れるだろう、で結婚した男性の話も聞いた。
数年経っても、性的な魅力を感じられなかったんです。寝室が分かれました。
一緒に暮らせば情が湧く、性格は合わせられる。それも期待だったという。
会話がゴミ出しと送迎だけになりました。家庭の中で孤独になるんです。
子どもがいるとどうなるのか。
普通の夫婦を演じます。それで離婚のタイミングを失いました。
条件を下げたのではなく、気づいた場合
首都圏以外は考えられない、と自分を縛っていた女性の話も聞いた。
引っ越したんです。思い切って。リモートで働けるようになったので。
そこで何が起きたのか。
土地の温度に救われました。人の話す速度も、家賃も、全部違ったので。
それは妥協だったのか、と聞いた。
違います。条件を下げたんじゃなくて、本当に大事なものに気づいた結果です。順番が違うんですよ。
食の好みについても、同じ話が出た。
朝はご飯かパンか。焼きそばに目玉焼きを乗せるかどうか。そういうのって、外食では見えないんです。
すり合わせはどうしたのか。
一個ずつ話しました。それで家庭の味ができていく。小さい妥協は、暮らしの共同作業になります。
彼女は、そこに線を引いた。
大きい妥協は、相手への債権になります。貸しになるんですよ。
言葉になった瞬間に、上下が生まれる
式の打ち合わせで
婚姻届を出したあとの話だ。
式の打ち合わせで、夫が言ったんです。お互いに妥協して結婚したんだと思う、って。
その場には誰がいたのか。
式場の担当者です。第三者の前でした。
どう思ったのか。
百点の相手なんて稀だとは、私も思ってたんですよ。事実としては合ってる。でも、あの場で言う必要があったのか。
その後どうなったのか。
準備が止まりました。離婚まで頭をよぎりました。
彼女は、その差を明確にした。
事実の共有と、相手の尊厳は別なんです。同じ内容でも、口に出した瞬間に上下が生まれる。
泥酔した夜の告白
別の家では、酒の席でそれが出た。
まだ元カノが好きで、傷心を紛らわすために付き合って、妥協で婚約した、ってこぼされました。
翌朝はどうなったのか。
今なら解消できる、って言われました。
妥協は沈黙しているうちは生活を回す。言葉になると関係の形が変わる。彼女の家では、そこから戻らなかった。
妥協してやったのに、が発動すると
妥協してやったのに、が出ると、と四十代の男性が言った。
気に入らない行動が、全部、服従の根拠になります。自分の選択を悔いるたびに、相手が格下になっていく。
彼が難しいと言ったのは、別のケースだった。
妥当な相手なのに、自分の市場価値を高く見積もってる場合です。下げてやった、って勘違いする。
それの何が問題なのか。
同程度の人を格下だと思うと、関係が最初から傾くんですよ。
彼が出した順番が、この取材で一番実務的だった。
正しい自己認知をしてから、その層の中でいちばん合う人を探す。点数を下げる作業より、そっちが先です。
出口に見えて、別の部屋の鍵だった
誰でも同じ、と思った二十九歳
二十九歳で本命に振られ、仕事も失った女性の話を聞いた。
単発の仕事に疲れてました。彼じゃなきゃ誰でも同じ、って自暴自棄になって、今の夫と付き合い始めたんです。
経済的にはどうなったのか。
楽になりました。そこは確かです。
十八年経った今は。
女の幸せも喜びもないです。相手への妥協っていうより、人生への妥協だったのかもしれないです。
自立の手段として
実家を出たくて結婚した人もいた。
一人の給料では厳しかったんです。結婚が自立の手段に見えました。
ときめきは。
なかったです。ないまま進みました。
いつ気づいたのか。
三ヶ月です。手段に人を使ったんだな、って。
結婚は出口に見えて、別の部屋の鍵だったと彼女は言う。
出たら別の部屋なんですよ。外じゃなかった。
その動機で人間性まで下げると、後悔が濃くなる、と彼女は続けた。
暴力とか、モラハラとか、依存とか。あそこはどんなに焦っても下げちゃいけない側です。
一緒にいて楽しくない相手も、長い毎日が窮屈になる。
あと、顔や行為しか取り柄のない人を選ぶほうが、静かに生活力がある人を選ぶより妥協だと思ってます。結婚を恋愛の延長だけで測ると、必要な静けさまで妥協に見えるので。
毎日が始まってから、見えてくるもの
結婚前は、次のデートまでに機嫌が戻っていた。毎日になると、その処理を相手に任せ始める。この話も複数出た。
予定変更で黙るんです。指摘すると、言い方の話になる。それで、謝る側が入れ替わる。
ほかにも具体例が挙がった。
脱いだ物は誰かがやると思ってる。私が熱を出しても、先に夕飯の心配をされる。
一つひとつは離婚の材料に見えないという。
時々は優しいんですよ。だから、結婚したらこんなもの、私が細かいだけ、って飲み込む。
見分ける方法を聞いた。
大きさじゃないです。距離が近くなったあと、誰の負担だけが増えたか。それだけ見ればわかります。
妥協して選んだ相手ほど、違和感を、結婚したらこんなもの、で上書きしやすい。彼女はそこを警戒していた。
妥協は、一回では終わらない
結婚は、と急かされて届を出しても、次は子どもは、家は、と圧力が続く家もある。
最初の一回で終わらないんですよ、と三十代の女性が言った。
生活の段階ごとに、また何かを下げるかどうかが来ます。
そこで人が分かれるという。
あのとき下げた、が積み重なる人と、今の暮らしを自分たちで選んでる、って更新できる人がいます。同じ状況でも、どっちの言い方をするかで全然違う。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
どのくらいの人が下げているのか
女性の六割、男性の四割超が、相手の条件をどこかで下げたと答える調査がある。下げた人の六割超は、そのことを後悔していない。この数字は、安心にも焦りにも使われていた。
妥協は必要なのか
必要だと答える人が七割前後になることがある。中身を聞くと、点数を全部満たせないという現実認識であることが多い。したくない側の中身は、下げた瞬間に上下が生まれることへの恐れだ。どちらも、相手を雑に扱いたくない気持ちから出ている。
下げてよかった項目は何か
容姿、服装、センス。年齢、学歴、結婚歴、居住地も、年月で気にならなくなったという声が多い。
下げてはいけない項目は何か
経済力、金銭感覚、家事への意欲、誠実さ。暴力とモラハラと依存は、どんな焦りがあっても別枠だと全員が言った。
うまくいった人の共通点
下げた項目を相手への貸しにしないこと。この人がいい、と言い切れる夜があったこと。この二つが揃っていた。うまくいかなかった側は、逃したら終わり、誰でも同じ、情が湧くはず、結婚したら治る、で違和感を先送りしている。
呼び名の話
沙織さんは今、再婚を前提に活動している。
次は何を変えるんですか、と聞いた。
呼び方を変えます、と彼女は言った。
どういう意味ですか。
前の夫のことを、私、ずっと心の中で、妥協した相手、って呼んでたんです。一度もそう口に出してないですけど、頭の中ではずっとそう呼んでた。
それが何を変えたのか。
呼び方が、妥協した相手のままだと、生活が取り立てになるんですよ。私はあなたのために下げた、っていう請求が毎日出る。
次はどう呼ぶのか。
一緒に味を作る人、みたいなことだと思います。まだうまく言えないですけど。
同じ行為でも、名前が違うと残るものが違う。彼女はそこに賭けている。
フードコートの向こうで子どもが転んで、大きな泣き声が上がった。彼女はそちらを一瞬見て、視線を戻した。それから、来週も見合いが二件入ってるんです、と言って、トレーを持って立ち上がった。