好きな人を忘れられないまま、どれくらい経っただろうか。新しい出会いがあっても、気づけば比べている。似た背格好の人とすれ違うだけで、胸の奥がざわつく。忘れたいのか、忘れたくないのか、それすらもう分からない。今回は、忘れられない想いを抱えたまま生きる3人に話を聞いた。出てきたのは忘れる方法ではなく、なぜ忘れられないのかという問いへの、それぞれの答えだった。
平日の夜8時、駅裏の古い喫茶店で待ち合わせた。約束より10分早く着いていたミナミさんは、コートも脱がずに窓際の席で文庫本を開いていた。30代半ばの会社員。
運ばれてきたカフェオレの湯気の向こうで、彼女はこちらの質問を待たずに口を開いた。
「先に言っておくと、まだ忘れられてないんです。2年半経つのに。我ながらしつこいですよね」
笑った顔が、最後だけ少し歪んだ。
自然消滅から2年半。彼女がまだ忘れられない理由
別れ話をしていない恋は、終わらせ方が分からない
ミナミさんが忘れられないのは、同じ部署にいた3つ上の先輩だ。残業続きだった時期、終電間際の彼女の机に、のど飴と温かい缶のスープをそっと置いていく人だった。ミスをすれば誰より先に気づいてフォローし、うまくいった仕事では黙って彼女の名前を出した。付き合うまでに1年、付き合ってからは半年。そこで彼の転勤が決まった。
お別れは、どんなふうに。
「それがね、別れ話をしてないんですよ。最初の1ヶ月は毎日電話してたのに、2ヶ月目には週1回になって、3ヶ月目には私が送ったLINEに2日既読がつかないのが普通になって。最後のやりとり、この前見返したんです。おつかれ、こっちも落ち着いたら連絡するね、でした。それが最後。ふられてもいないし、ふってもいない」
はっきりさせようとは思わなかったのだろうか。
「思いました。下書きまで書いたんです。私たち、もう終わりってことでいいんだよねって。でも送れなかった」そこで彼女は声を落とした。「だって、聞いたら終わるじゃないですか。終わってないことにしておけば、いつか続きがあるかもしれない。復縁って言葉は使いたくないけど、まあ、そういうことです。今振り返ると、あの曖昧さに自分からしがみついてました。彼がひどいんじゃなくて、終わらせなかったのは私のほうなんです」
新しい出会いで、勝手に減点してしまう
この2年半、どんな瞬間に思い出すのか。
「グレーのコートを着た姿勢のいい人とすれ違ったとき。コンビニであの缶スープを見たとき。あとは、仕事でほめられたとき。これが一番きついんです。真っ先に報告したい相手が、もういないから」
夜中の癖もあった、という。
「寝る前に彼のSNSを見に行くんです。更新なんてほとんどないのに、毎晩。一度、知らない女の人が写ってる飲み会の写真が上がってて、朝まで眠れませんでした。次の日、アプリごと消しました。見なければ平気になるわけじゃないけど、夜中に自分を殴る回数は減りましたね」
新しい出会いはなかったのか。そう聞くと、苦笑いが返ってきた。
「マッチングアプリも友達の紹介も、ひと通りやりましたよ。いい人もいました。でも食事の途中で、ああこの人は私が黙ったとき話題を探してくれないんだなとか、勝手に減点してるんです。ひどいですよね。相手は何も悪くないのに、私の中の採点基準が全部あの人で出来上がってる」
この感覚を、ただの理想化と片付けるのは違う気がしている。人は初めて深い安心を覚えた相手を、好みの問題としてではなく、心の物差しのゼロ点として記録してしまう。以後に出会う誰もが、その物差しで測られる。比べてしまうのではない。比べる以外の測り方を、心がまだ知らないのだ。
忘れたら、あの頃の自分まで消えてしまう
忘れたいですか。そう尋ねると、長い沈黙が落ちた。30秒は黙っていたと思う。
「忘れたくないんだと思います」絞り出すような声だった。「だって彼を忘れたら、あの頃の自分も消えるから」
どういうことだろう。
「彼といたときの私、ちゃんと人に頼れたんです。弱音も吐けたし、夜に理由もなく泣かずに済んだ。失ったのは彼っていうより、あれができてた自分なんですよ。彼の記憶を消したら、人生でいちばんましだった頃の自分のデータごと消えちゃう。それが怖くて、手放せない」
取材を重ねるほど、この構造に行き当たる。好きな人を忘れられない心理の正体は、相手への執着だけではない。相手といた頃の自分を失いたくないという、いわば自分ロスだ。未練という言葉で自分を責めている人の何割かは、本当は相手ではなく、過去の自分に会いたがっている。
ミナミさんが少し息ができるようになったのは、ヨガを始めてからだという。
「最初は逃げでした。呼吸に集中してる60分だけは考えずに済む。それが週2回になって、気づいたら1年続いてて。忘れたわけじゃないです。ただ、思い出しても息が止まらなくなった。今はそれで十分だと思ってます」
付き合ってもいないのに。片思いが一番長引く仕組み
試合をしていないから、負けを認められない
別の週末、リョウさんに会った。20代後半の会社員で、土曜の昼、登山帰りだという日焼けした顔でファミレスに現れた。彼が忘れられないのは、職場近くのカフェで働いていた女性だ。毎朝通ううちに言葉を交わすようになり、おすすめの本を貸し借りする仲になった。ただ、彼女に長く付き合っている恋人がいると知り、想いは告げないままだった。やがて彼女は店を辞め、会えなくなった。
付き合ってもいないのに忘れられないのはおかしいのかと、検索したことはあるか。
「ありますよ。片思い、忘れられない、気持ち悪い、まで打って消しました」彼は笑った。「告白すらしてないのに2年近く引きずるって、自分でもどうかしてると思ってたんで。でもね、俺、振られてすらいないんですよ。試合をしてないのに負けを認めろって言われてる感じ、分かります?」
一番焼きついている記憶を聞くと、迷わず答えが返ってきた。
「雨の日です。店を出たら土砂降りで、彼女が折りたたみ傘を出して、入ってきますかって。駅まで7分。肩が触れないように歩くのに必死で、会話の中身はひとつも覚えてないのに、傘を打つ雨の音だけ今でも再生できる」
つらかった時期について尋ねると、少し間があった。
「彼女に恋人がいるって知った日からの3ヶ月ですね。知ってるのに毎朝あの店に行くんですよ。会えたら嬉しくて、帰り道で地の底まで落ち込む。それを週5でやってた。自分で自分を殴り続けてたようなもんです。一番ひどい夜は、この気持ちを抱えたまま人生が延々続くのかと思って、正直、消えたいなと思ったこともありました」
誰もいない部屋で、ひとりだけの葬式をした夜
転機は、大学時代の友人の一言だった。
「酒の席で全部話したら、お前のそれは失恋ですらない、まだ試合が始まってないだけだ、ちゃんと終われてないんだよって言われて。ムカつきましたけど、図星でした」
それで彼は、日曜の夜にひとりで儀式をした。
「連絡先を消して、店の前で撮った写真を消して、彼女がくれたショップカードを捨てました。で、アホみたいなんですけど、誰もいない部屋で声に出して言ったんです。好きでした、終わります、って。告白の代わりに、終わりの宣言だけ自分でやった。葬式みたいなもんですよ」
ここに、片思いや自然消滅が一番長引く仕組みの核心がある。きちんと終わった恋は記憶になるが、終われなかった恋は宿題になる。脳は完結していない物語を放っておけず、ふとした隙に勝手に続きを再生する。だから葬式のない別れには、自分で終わりの儀式を発明するしかない。リョウさんの夜は、まさにそれだった。
「すぐ楽になったわけじゃないです。3ヶ月くらいは反動で余計きつかった。でも登山を始めてから、頭の中の彼女のシェアが100から70、50って下がっていく感覚があって。今は5パーセントくらいですかね。雨の日だけ、ちょっと上がりますけど」
そう言って、彼は照れたように水を飲んだ。
忘れる方法を探すのを、やめた人
忘れようとするほど、心は削れていく
最後に話を聞いたケイタさんは30代後半。7年付き合った恋人と価値観の違いで別れて、2年が経つ。一時期は眠れなくなり、カウンセリングに通った。取材は夜のオンライン通話だったが、画面越しでも分かるくらい、彼は一語ずつ選びながら話す人だった。
「カウンセラーに、忘れようとするのをやめましょうって言われたとき、は?って思いました。こっちは忘れたくてお金を払ってるのに」
それでも通ううちに、気づいたことがあるという。
「忘れるのを目標にした瞬間、毎日が採点になるんです。今日も思い出した、はい不合格。今週は3回思い出した、不合格。そりゃ苦しいですよ。思い出すこと自体より、思い出した自分を責めることのほうが、よっぽど心を削ってました」
今はどうなのか。
「正直、今も彼女の夢を見る朝があります。引きずってるかと聞かれたら、引きずってるんでしょうね。ただ、それを問題だと思うのをやめました。思い出って、消すものじゃなくて置き場所を変えるものなんだと思います。毎日開けてた引き出しから、年に数回しか開けない引き出しへ。中身は捨てなくていい」
冷めたカフェオレと、分からないという答え
取材の終わり、ミナミさんにひとつだけ意地の悪い質問をした。もし今夜、あの人から連絡が来たらどうしますか。
彼女は窓の外を見て、長いこと黙ってから言った。
「会わないと思います。たぶん。……ごめんなさい、嘘かもしれない。分からないです」
カフェオレはとっくに冷めていた。彼女はそれを一口飲んで、まずい、と笑った。その笑い方は、最初のものより少しだけ軽かった。
好きな人を忘れられないまま生きている人は、思っているよりずっと多い。そして彼らは案外ちゃんと、今日も会社に行き、山に登り、冷めたカフェオレを飲んで笑っている。忘れられないことと、生きていけないことは、別の話なのだ。