会場は駅から離れた古い喫茶店で、床のタイルが一部欠けている。午後三時を過ぎると客がいなくなる店だ。最初のミナさんは、コーヒーが来る前に「私、結論が出るまで四年かかったんですよ」と言った。四年ですか、と聞き返したら、はい、と即答された。
名前がつかないまま、四年が過ぎた
付き合ってるの、と聞かれた日
三十四歳のミナさんの相手は、大学からの友人男性だった。
「一緒にいると安心するし、何かあったらまずその人に連絡してました。誕生日も覚えてるし、向こうが引っ越すときは一日手伝いに行くし。傍から見たら、そりゃそう見えますよね」
飲み会で、付き合ってるの、と誰かに聞かれた。
「その場は笑って流したんですけど、帰りの電車でずっと考えちゃって。私、この人のことどう思ってるんだろうって」
その夜、家で本気で検証したという。
「恋人として過ごす未来を、具体的に想像してみたんです。手をつなぐとか、うちに泊まるとか。全然、映像が出てこなくて。空白なんですよ」
嫌悪感でもなく。
「そう、嫌じゃないんです。ただ、出てこない。あと、この人が誰かと付き合ったらどう思うかも考えて、そのときは、よかったねって普通に思える自分がいた。独占したい気持ちがどこにもなかった」
それで結論が出た。
「出たというか、腑に落ちた瞬間に、四年分のモヤモヤがすっと消えました。名前がついてないから苦しかったんだって、そのとき初めてわかった」
判定は、頭ではなく体が下している
三十七歳のケンジさんの場合は、検証の機会が向こうからやってきた。
職場の同僚に強い親近感を持っていた。仕事の話も私生活の話も自然にできて、休日に二人で食事に行くこともあった。
「相手が他の男と付き合い始めたって聞いたんですよ。廊下で、別の同僚から」
そのとき何を感じました。
「よかったな、って。一秒で。しかも自然に」
嫉妬は。
「ゼロでした。それで、あ、俺はこの人を好きじゃなかったんだって理解した。本当に好きだったら、あんなに平気でいられるわけがない」
ここが、六人の話に共通していた構造だ。誰も内省だけで答えを出していない。全員、感情が試される場面に偶然放り込まれ、そこで出た反応を後から読んだ。
想像した未来に映像が出るかどうか。相手が誰かのものになると聞いた瞬間、胃が落ちるかどうか。判定は先に体が下していて、言葉はそのあとから追いかけている。だから頭で考え続けても答えが出ない。判定材料がまだ揃っていないだけだ。
好意が好きに変わるとき、順番が逆になる
距離が縮まったあとで、名前がついた
二十九歳のサエさんは、逆方向に動いた人だ。
同じサークルの男性と、よく一緒に行動していた。最初は性格が合って話しやすい、その程度だった。
「本当にそれだけだったんです。恋愛対象として見たことがなかった」
変わったのは合宿のあとだった。移動で二人になる機会が増え、些細な反応が気になり始めた。
「相手が私の話にどう反応するか、いちいち確認してる自分に気づいて。あれ、私こんな人だったっけって」
決定的な瞬間は。
「夜の電話です。何でもない話をしてて、向こうが明日早いからって切ろうとしたときに、あ、切ってほしくないって思った。その瞬間に、これただの好意じゃないなって」
彼女の説明で印象に残ったのはこの一言だ。
「順番が逆なんですよ。普通、好きになってから距離を縮めるじゃないですか。あれは、距離が縮まりきったあとで、感情に名前が追いついてきた感じ」
名前を先につけると、感情の方が歪む
サエさんの話は、逆の危険も照らしている。名前が後から来るなら、先に名前をつけてしまった場合はどうなるか。
三十二歳のダイキさんがそれをやった。
女性からよく連絡が来て、相談に乗り、休日に一緒に出かけていた。笑顔で接してくれる。
「きっと好きなんだろうなって思い込んだんです。というか、思い込みたかった」
告白した返事は明確だった。人としてはすごく好きだけれど、恋愛対象としては見ていない。
「あれ、いちばんきつい断られ方だと思うんですよ。全否定されてない分、どこで間違えたのかがわからない」
しばらく落ち込んだあとで、彼が気づいたことがある。
「相手の優しさを、特別なサインとして読んでたんです。あの人は誰にでもあの態度なのに。俺は、俺だけに向けられてる証拠を毎回探してた」
証拠を探し始めた時点で、判定はもう歪む。ミナさんが四年かけて空白を空白のまま見たのに対し、ダイキさんは空白に先に名札を貼っていた。
焦っているとき、それは好きではないかもしれない
返事が遅いと、自分の価値を疑う
三十五歳のアヤさんが話してくれたのは、好意と好きの線引きではなく、好きと執着の線引きだった。
「会えないと不安でたまらない。返信が遅いと、自分に価値がないって思う。あの状態を、私はずっと本気の恋だと思ってました」
いつ疑いましたか。
「ある日、返事が来た瞬間に、嬉しさより先に安心が来たんですよ。ああ、よかった、まだ嫌われてない、って。そこで、あれ、これ喜んでないなって」
彼女は当時の状態を、こう説明する。
「本当に好きな相手といるときって、体が温かくなる感じがあるんです。ゆっくりしてる。でも執着してるときは、視野が針の穴みたいに狭くて、ずっと焦ってる。同じ相手に対して、両方の状態が起きるんですよね。だから混ざる」
感情の主語を確かめる
アヤさんが自分でやったという区別の仕方が、いちばん実用的だった。
「その感情の主語が、相手なのか自分なのかを見るんです。あの人に会いたい、なら相手が主語。嫌われたくない、なら主語は自分。私、後半ばっかりだったんですよ」
好きは相手の存在に向かう。不安は自分の立場に向かう。強度は不安の方が高いことも多いから、強さを基準にすると簡単に取り違える。
「苦しさを愛情の量だと思ってたんですよね。しんどいほど本気だと。あれ、順番に全部誤解でした」
年齢が上がると、判定の基準が入れ替わる
四十三歳のトモコさんは、二十代の自分をこう振り返る。
「ドキドキする、イコール、好き。それしか基準がなかったです。だから、緊張する相手ほど好きなんだと思ってた」
今は違うんですか。
「一緒にいたいかどうか、ですね。もっと言うと、自分の人生にこの人を入れたいかどうか」
彼女の言い方を借りると、好意は相手の良いところを認めて応援する気持ちで、好きは選択に近い。
「この人が幸せならいい、で終わるのが好意。自分がその幸せの中にいたい、まで行くのが好き。ここ、はっきり違うんですよ」
判定に迷ったときにやることも決まっているという。
「三年後の日曜の午後を想像するんです。特別な日じゃなくて、何もない日。その絵に相手がいて、違和感がなければ好き。すごく良い人なのに絵に入れると変な感じがするなら、それは好意止まり」
素晴らしい人でも、と。
「素晴らしいことと、自分の生活に入れることは別ですから。そこを混ぜると、周りから見て完璧な相手と付き合って、自分だけ理由もわからず苦しくなる」
結論を急いだ人から、間違える
ミナさんに最後に聞いた。四年もかかったことを後悔していますか、と。
「してないです。むしろ、四年かけてよかった。あのとき無理に好きって名前をつけてたら、たぶん告白して、関係が終わってた」
今もその友人とは。
「続いてます。十二年目。この前も引っ越し手伝いに行きました」
彼女はカップを置いて、少し考えてから付け加えた。
「ただ、これで正解だったのかは、正直まだわからないんですよ。あのとき違う名前をつけていたら、今ごろ結婚してた可能性もゼロじゃない。答え合わせができないまま、この関係だけが残ってる」
店の主人が奥でラジオの音量を下げた。窓の外を自転車が二台通って、そのあと誰も来なかった。