丁寧な言葉で近づいてくる。笑顔もある。それなのに背中が冷える。あの感覚を説明できないまま、失礼だったかもしれないと後から自分を責める人が多い。話しかけてくる男性への警戒は考えすぎなのか、それとも当たっているのか。実際に逃げ切った人たちに、危険を察知した瞬間だけを聞いた。全員が、言葉ではなく別のものを見ていた。
聞き取りは三日に分けた。喫茶店を指定したら、二人目から入口が見える席を希望された。三人目は、駅ではなく交番のそばで待ち合わせたいと言った。理由は聞かなかった。四十歳のサトミさんは、席に着いてから鞄を膝の上に置いたまま、最後まで下ろさなかった。
甘い言葉の直後に、地形が変わっていた
ホテル街が見えるまで、気づかなかった
サトミさんが体験したのは二十代前半、大学へ向かう朝だった。
「後ろからすみませんって言われて。振り返ったら、眼鏡かけた普通の身なりの人でした。怪しい要素がゼロなんですよ」
何と言われたんですか。
「さっき同じ電車に乗っていて、こんなにかわいい人を逃したくないと思って、って」
そのときの気持ちは。
「胸が熱くなりました。正直に言うと。当時、甘い言葉に弱かったので。それで、つい一緒に歩き始めちゃって」
会話は続いた。大学の近くまで、普通に話していたという。
「彼が急に指を差して、入りますか、って笑ったんです。目線の先にホテル街があって。そこで初めて、あ、道が変わってるって気づいた」
どうしました。
「用事があるのでって言って、走りました。今でも思うんですけど、あと三分気づくのが遅かったらどうなってたんだろうって」
彼女はそこで一度言葉を切って、水を飲んだ。
「怖いのは、あの人が最後まで丁寧だったことなんですよ。声を荒らげてもいないし、腕を掴まれてもいない。ただ、私が歩く方向だけが、いつのまにか決まってた」
言葉ではなく、選択肢の数を見る
この話がすべての土台になっている、と私は思う。
危険な接近は、態度で判別できない。丁寧さは誰でも装える。ではサトミさんの体に何が起きていたかというと、選択肢が減っていたのだ。同じ方向へ歩き続けるうちに、引き返す距離が伸び、人通りが減り、行き先の候補が絞られていく。
言葉の内容は変わらないのに、自分が取れる行動の数だけが静かに減っていく。あの寒気は、その変化を体が先に検知した信号だ。
だから見るべきは相手の目つきではない。今この瞬間、自分は何通りの動き方ができるか。それだけを数える。
ドアが開いた瞬間、体が勝手に下がった
道を聞かれて、近づいた
三十七歳のエリさんが遭遇したのは昼間だった。一方通行の道で、逆向きに止まった車の窓から声をかけられた。
「地図を広げてる三十代くらいの男性で、道を教えてほしいって。昼だし、車だし、地図まで持ってて」
近づいたんですね。
「親切心です。完全に。で、近づいた瞬間にドアが勢いよく開いて」
そのとき何を考えました。
「考えてないです。体が先に後ろへ下がってました。頭が状況を理解したのは、たぶん一秒後」
彼女はそこで、この辺は詳しくないと嘘をついて、近くのバス停まで走った。
「振り返ったら苦笑いして車に戻って、すぐUターンして消えました。何が目的だったのかは今もわからないです。ただ、あの下がった一秒がなかったらと思うと」
何かおかしいの正体は、細部の矛盾
三十四歳のミサさんの話も似た形をしている。中学生の頃、駅から十五分の道を歩いていたら、知らない大人の男性がついてきた。
「怪しいものじゃないから、ってはしゃいだ口調で言うんです。それで、この辺危ないから家まで送るよって」
一番危ないのは。
「その人ですよね。でも本人は清廉潔白な顔をしてるんですよ。あれが理解できなかった。自分の言ってることと、目の前の状況が矛盾してるのに、本人が全然気にしてない」
固まったまま動けなくなり、どうにか人通りの多い場所まで逃げた。
エリさんの車と、ミサさんの送るという申し出。どちらも、表向きの目的と実際の動きがずれている。道を聞くのにドアを開ける必要はない。危険を心配するなら、まず自分が離れればいい。
この小さな矛盾を、頭は言語化できない。かわりに体が反応する。何かおかしいという感覚は、根拠のない不安ではなく、辻褄の合わない細部を検出した結果だ。
玄関を押さえていて、と言われて従ってしまった
三十九歳のカオリさんの話は、この取材で一番長い沈黙を挟んだ。
たまたま知り合った男性と食事をしたあとのことだ。家にかわいい犬がいるから見に来ないかと誘われた。
「断りました。はっきり。そうしたら、じゃあ駅まで送るって」
そこから。
「話を止めないまま、裏路地に入っていったんです。途中で、実は家が近いから書類を取ってくる、玄関を押さえていてほしいって」
押さえたんですか。
「押さえました」
なぜ、と聞くつもりはなかったが、彼女が自分から続けた。
「反射的にです。あのとき、断る理由が見つからなかった。ドアを押さえるだけでしょって、自分に言い聞かせて。今でもそこが一番悔しい」
そのあと、奥に入るよう強く言われ、担がれるようにして中に入れられた。
「過呼吸になりかけました。必死に鍵をガチャガチャさせながら、開けてって叫んで。そうしたら相手も少し我に返ったみたいで、解放されて」
彼女は青ざめたまま駅を探して走った。
「情けなかったです。自分が。断ってたのに、玄関のところで従っちゃった」
ここで言っておきたいことがある。従ってしまった側に落ち度はない。あの手順は、大きな要求ではなく、断る理由が思いつかない小さな依頼から始まる設計になっている。ドアを押さえるだけ。荷物を持つだけ。二分だけ待つだけ。
一度でも従うと、次の依頼を断るのが急に難しくなる。さっきは応じたのに今度は断るのか、という説明を、自分の中で組み立てなければならなくなるからだ。その負荷を利用している。
だから、理由が要らない。行きません、で十分だ。失礼かどうかを判定するのは、こちらの仕事ではない。
全部が危険なわけではない、という部分
勘違いで終わった話
同じ人たちから、拍子抜けした体験も聞いている。
サトミさんはスーパーの野菜売り場で、隣にいた三十代くらいの男性から春キャベツの話を振られた。悪気のない笑顔だったので普通に返事をしたという。
「しばらく会話が続いたあと、その人が後ろを向いたんです。奥さんが立ってて。私の返事を聞いて、困った顔をしてた」
つまり。
「奥さんに話しかけてたんですよ、最初から。顔が真っ赤になって無言で離れました。誰にも言えなくて、何日も一人で悶々としてました」
荷物を持ちましょうかと声をかけられ、実は後ろの人への言葉だったという体験を持つ人もいた。
ミサさんが挙げたのは、カフェでの出来事だ。一人で勉強していたら、隣の席にいた親子連れの男性から、韓国語を勉強しているんですね、と声をかけられた。
「少しだけ韓国語で話して、笑って別れました。話しかけられてよかったって思えたの、あれが初めてでした」
危険度は言葉ではなく配置で決まる
安全だった例と危険だった例を並べると、差は言葉遣いにない。
カフェの男性は子連れで、席に座ったままで、会話は数分で終わっている。スーパーの二人は明るい店内にいて、周囲に人がいて、こちらは好きなときに立ち去れた。
危険だった側は全員、移動を伴っている。歩き続ける。車に近づかせる。裏路地に入る。玄関の内側へ入れる。
判定に使えるのは、相手の人格ではなく配置だ。今いる場所に人はいるか。自分は止まったままか、動かされているか。相手はこちらを特定の場所へ移動させようとしているか。
それでも、後から自分を責めてしまう
エリさんが最後に話してくれたのは、逃げたあとの話だった。
「バス停で息を整えながら、私、失礼だったかなって考えてたんです。本当にただ道を聞きたかっただけだったら、って」
そう思うものですか。
「思います。しかも何回も。無視して足を速めた夜も、あとから、あの人ただ挨拶しただけだったのかもって考えて」
飲食店の並ぶ路地で、こんばんはと声をかけられて無視した夜のことだ。振り返ると相手はそのまま立ち尽くしていた。
「たぶん軽いナンパだったんだと思います。今考えると。でもあの瞬間は、体が固まってて、無視するしかできなかった」
反省する必要はないと思いますが。
「わかってるんですよ。でも、感じよく生きろって育てられてるので。反射で謝る癖が抜けない」
カオリさんも、下ネタを言い始めて別の道から追いかけてきた男に遭遇したときのことを、こう言った。
「楽しいはずの散歩が全部台無しになって。相手を怒る前に、私が油断したのがいけないって思考が先に来るんです」
本屋を出たところで、前にここで見かけてと待ち伏せされた人もいる。携帯ショップで説明を受けたあと、店員に追いかけられて番号を渡された人もいる。
「お綺麗ですね、から始まることが多いんですよ」とサトミさんが言った。「言葉は丁寧なんです。丁寧だから、断る側が悪者になる」
三人とも、身を守った自分の判断を、いまだに手放しでは肯定していない。
サトミさんが帰り際、鞄の紐を肩にかけ直しながら言った。
「あの朝、走って逃げたことは正解だったと思ってます。ただ、走りながら、失礼な人だと思われたらどうしようって考えてた自分のことは、まだよくわからないままで」
店の外は明るくて、通りには人がたくさんいた。彼女はそれを確認してから出ていった。