友人の結婚式の二次会を、誰かがビデオに撮っていた。半年後、その動画がグループに流れてきて、私は自分が映っている場面を再生した。
画面のなかの私は、同じテーブルの男性と話している。よく喋り、よく笑っている。ここまでは、まあ、想像どおりだった。問題はそのあとだ。私が身を乗り出して何か言った瞬間、相手の肩が、後ろに引いた。ほんの数センチだと思う。動画を止めて、巻き戻して、もう一度見た。やっぱり引いている。
その一秒を、私は二十回くらい繰り返し見た。あの場にいたときの記憶では、私たちは楽しく喋っていた。彼が体を引いたことなんて、まったく覚えていない。というより、見ていなかった。
距離が近い女、と言われてきた。二十代の頃から何度も。そのたびに、そんなに近いかな、と思っていた。動画で見た自分は、相手の顔まで、たぶん四十センチくらいのところにいた。
私の四十センチは、生まれたときからの初期設定だった
自分では、詰めている感覚がまったくない。これが厄介なところだ。故意に近づいているなら、やめればいい。でも私にとって、あの距離が普通だった。世界中の人が同じくらいの位置で話していると、三十を過ぎるまで本気で思っていた。
六畳に三人で寝ていた家で育った
思い当たることは、ある。実家が狭くて、しかも人が多かった。兄と姉と私で、六畳に川の字で寝ていた。寝返りを打てば誰かに当たる。テレビを見るときも、三人で一つのソファに詰めて座っていた。ご飯のときも肩が触れている。
人と体が接している状態が、うちでは平常だった。だから、社会に出て、みんなが一メートルくらい離れて話しているのを見ても、なんとなく、よそよそしい人たちだな、と思っていた。距離が遠いほうがおかしいと感じていたくらいだ。私の初期設定は、他人より六十センチほど内側にあった。
近いのは、あなたにだけじゃない
もう一つ、はっきり書いておきたい。私は、誰に対しても同じ距離だった。
好きな人にだけ近づいていたわけじゃない。上司にも、後輩にも、女友達にも、取引先の人にも、同じ四十センチで話していた。相手によって縮めたり広げたりする、という発想がそもそもなかった。距離は、私のなかで、調整するものじゃなかった。
脈ありかどうか知りたい人に、近い側から答える
たぶん、この文章を読んでいる人のなかに、いま職場の誰かの距離が近くて、意味を測りかねている人がいると思う。近い側から、正直なところを書く。
距離そのものは、判定の材料にならない
距離が近い女の多くは、たぶん私と同じで、全員に近い。だから、あなたに近いという事実だけでは、何も分からない。あなたの席の横でモニターを覗き込んできたとして、彼女は隣の席の人にも同じことをしている可能性が高い。
私を好きだと勘違いした男性が、これまでに何人かいた。悪いのは私だと思う。誤解させる材料を、私が毎日ばらまいていた。ただ、彼らがやっていたのは、私の定数を、変数として読むことだった。ずっと同じ値なのに、自分に向けられた変化だと解釈してしまう。
見るべきなのは、距離じゃなくて距離の変化
じゃあ、何を見ればいいのか。私が思うに、見るべきなのは変化のほうだ。
二人きりになったときだけ近づくかどうか。人が増えると離れるかどうか。あなたと話すときだけ、他の人のときより明らかに近いかどうか。ここに差があるなら、意味があるかもしれない。逆に、誰といても常に同じなら、それはその人の設定であって、あなたへの信号じゃない。
私の場合は、完全に後者だった。だから、期待させた分だけ、あとで人を傷つけた。
のけぞられた一瞬を、私は一度も見ていなかった
動画の衝撃は、近すぎたことじゃない。相手の反応に、まったく気づいていなかったことだった。
近づく側の視界には、相手の後退が入らない
なぜ気づけないのか。ずっと考えて、こう思っている。近づいているとき、人は話に集中している。相手の目を見て、次に何を言うか考えている。相手の体が数センチ後ろに動いたかどうかなんて、意識の外だ。
一方で、下がった側は、自分が下がったことをはっきり覚えている。この非対称が残酷だと思う。片方は覚えていて、片方は知りもしない。しかも、下がった人は、たいてい何も言わない。会話を止めてまで、少し離れてください、と言う人はほとんどいない。だから私は、何も知らないまま、十年以上やり続けた。
過去の場面を、片っ端から見直すはめになった
あの動画を見た夜、私は昔のことを思い出し始めた。給湯室で、後輩の男の子がポットの前で妙に固まっていたこと。会議で隣に座ったとき、相手が椅子をわずかに引いた音。教えているつもりでキーボードの上から手を伸ばしたとき、相手の肩が石みたいになっていたこと。
全部、当時は気にも留めなかった。動画を見たあとで、それらが一斉に意味を持ち始めた。あの人もあの人も、実は困っていた。私はずっと、善意で人を固まらせていた。恥ずかしいという言葉では足りない。夜中に布団のなかで、うわっと声が出た。
私を罰したのは、男の人じゃなかった
ここが、たぶん、この話でいちばん書かれていない部分だと思う。
距離が近いことで私が失ったのは、男性からの信頼じゃない。同性からの信頼だった。
あの子は誰にでもそうだから、というフォロー
飲み会で、友人の恋人の隣に座って、いつもの距離で話していたことがある。当然、他意はない。あとで別の友人が、あの子は誰にでもそうだから、とフォローしてくれた。
あれは、いま思うと、フォローの形をした説明だった。彼女は、その場の空気を収めるために、私の人格を代弁しなければならなかった。つまり、私は自分の距離感のせいで、友人に余計な仕事をさせていた。しかも、フォローが必要な状況を作ったのは、間違いなく私だ。
陰で呼ばれていた名前を、あとから知った
もっとあとになって、私が陰でどう呼ばれていたかを知った。距離バグ、という言い方だった。悪意というより、からかいに近い。それでも、聞いたときは息が止まった。
男性は、たいてい黙って耐えてくれる。あるいは、勝手に好意だと解釈してくれる。困っていても、直接は言わない。でも同性は、はっきり見ている。人の恋人に体を寄せる人、として記録している。私が二十代で少しずつ人間関係を失っていった理由が、そこにあった。近づいたぶんの代償は、全部、同性との関係のほうに請求されていた。
半歩下がってみたら、会話が続かなくなった
三十を過ぎて、私は直すことにした。方法は単純で、話すときに半歩下がる。それだけ。
効果はすぐ出た。相手が固まらなくなった。給湯室で誰も逃げなくなった。よかった、と思った。ただ、思っていなかった副作用が出た。
触れることが、私にとっての言葉だった
私は、言葉で気持ちを伝えるのが、あまりうまくない。落ち込んでいる人がいたら、肩を叩いていた。嬉しいときは腕を掴んでいた。心配していることも、近づくことで伝えていた。あれは癖じゃなくて、私の語彙だった。
半歩下がった瞬間、その語彙が使えなくなった。代わりの言葉を、私は持っていない。だから、大丈夫、とか、無理しないでね、とか、誰でも言える台詞を口にするようになった。ちゃんとした距離で、ちゃんとした言葉を使う。当たり障りがなくて、誰も困らない。誰の心にも届かない。
感じのいい他人になった
昔からの友人に、最近ちょっと変わったね、と言われた。前のほうが話しやすかった、とも。
その通りだと思う。私は、正しい距離を身につけた代わりに、感じのいい他人になった。近すぎて迷惑をかけていた頃のほうが、たぶん、人の心には入り込んでいた。どちらがよかったのか、いまも決めきれない。
先月、友人が泣いていた。仕事がしんどくて、限界だ、と。昔の私なら、何も考えずに隣に座って、肩を抱いていた。
その日の私は、半歩下がった。反射的に、体が勝手にそうした。抱きしめるべき場面だと頭では分かっているのに、腕が動かない。結局、そうなんだ、大変だったね、と言っただけで、その日は終わった。帰りの電車で、自分に腹が立った。人を困らせない距離を覚えた代わりに、必要なときに近づく力まで、どこかに落としてきたらしい。四十センチは、たしかに近すぎた。じゃあ、正解は何センチなのか。誰も教えてくれないし、私はいまだに、その数字を知らない。