返信の間隔が少し伸びた。スマホを伏せる回数が増えた。笑い方が、前と違う気がする。その時点で私たちはたいてい、気のせいということにする。忙しいんだろう、疲れてるんだろう、と。そして半年後か一年後に、全部がまとめて別の意味になって返ってくる。
彼女に何が起こったか。取材した六人のうち、浮気の話は一つだけだった。残りは、誰も悪くない別れ、病気、職場のこと、そして本人にも説明できない気持ちの反転だ。全員が同じことを言った。サインは、あった。
平日の午後三時、環七沿いのファミリーレストラン。窓際の席は日が入りすぎて暑い。たくみさん、二十八歳、会社員はドリンクバーのメロンソーダを持ってきて、最後まで一口も飲まなかった。氷が溶けて、色が薄くなっていくのを二時間見ていた。
サインは全部そこにあった。読む気がなかっただけだ
友人のひと言で、二年分が並べ替わった
飲み会でした。共通の友達が、悪気なく言ったんです。最近彼女さん、別の男とよくいるみたいだけど大丈夫、って。俺は笑って、仕事関係でしょ、って返した。声は普通に出てました。
でも、そこから頭の中が止まらなくなった。残業が急に増えたのは三ヶ月前から。メッセージが一日十通から二、三通になったのが、たぶん同じ頃。テーブルにスマホを置くとき、画面を下にするようになったのはいつからだったか。ひとつずつは全部説明がつくんですよ。忙しい、疲れてる、癖。それが並ぶと、説明がつかなくなる。
彼はここで初めてストローに触れた。触っただけで、飲まない。
俺、気づいてなかったんじゃないんです。全部見てた。見て、そのたびに自分で打ち消してた。気づいたら関係が終わるってわかってたから、気づかないことにしてた。だから浮気が発覚したとき、驚いてないんですよ、自分が。ああ、やっぱり、って思った。やっぱりって思った自分が、いちばん嫌でした。
浮気そのものより、後から色が変わることのほうがきつい
つらかったのは何かと聞くと、彼は少し考えてから、写真です、と答えた。
前の年に行った旅行の写真が残ってるんです。海で撮ったやつ。あの時間、俺は本気で楽しかった。将来の話もした。子どもは二人がいいとか、そういうくだらない話。その旅行の時期って、たぶんもう始まってたんですよ、向こうは。
そうなると、あの日の記憶が使えなくなる。楽しかった記憶として保存できない。俺だけが同じ温度でいたんだな、って思うと、思い出が全部、その場で腐る感じでした。
別れてから三ヶ月、朝の電車で降りる駅を二回間違えた。友人からの飲みの誘いも半年断り続けた。データは消してないという。消したら本当に一人になる気がして、と彼は言った。
大丈夫としか答えない人に、大丈夫かと聞き続けていた
しんごさんに会ったのは、彼の職場近くの立ち食いそば屋の外だった。二十四歳のときの話です、と前置きして、彼はしばらく黙った。今は三十代。
交際して一年経った頃から、彼女の顔つきが変わっていった。一緒にごはんを食べに行く回数が減って、行っても箸が進まない。表情が硬い。仕事が忙しいって言ってたし、体調崩してるんだろうと思ったんです。それで、大丈夫、って聞いた。何回も聞いた。大丈夫、って返ってきた。それで会話が終わってた。
質問の形が、返ってくる答えを決めていた
後になって、彼女が食事のことでかなりしんどくなっていたと知る。当時の彼は何も知らなかった。
今考えると、俺の聞き方がまずかった。大丈夫かって聞かれたら、大丈夫としか言えないんですよ。はいかいいえで終わる質問だから。しかも、大丈夫じゃないって答えたら、その先を説明しなきゃいけなくなる。説明できる状態じゃない人に、説明を要求してたんです、俺は。心配してるつもりで、実は会話を早く終わらせてた。
聞くなら、いつからしんどいのか、とか、今日はどのくらい眠れたのか、とか。答えが一語で済まない形にすべきだった。それと、俺が一人でどうにかしようとしたのもよくなかった。あれは恋人が根性で支える話じゃなくて、病院にかかる話でした。彼女は後にちゃんと専門の先生のところに通って、少しずつ戻っていったと共通の友人から聞きました。俺が何かしたわけじゃない。
彼女とは自然に会わなくなった。責める資格もないし、責められてもいない。ただ、あの時期の彼女のあの一語だけは、今も耳に残っているという。
彼女の中で起きていたことは、恋愛の外側から始まっていた
みほさん、三十五歳。彼女が話してくれたのは自分の体験ではなく、今の夫の元交際相手についての、当時を知る友人から聞いた話だ。
すごく明るい人だったらしいんです。よく笑って、飲み会でも中心にいるような。それが、ある時期からぱたっと連絡が取れなくなった。誘っても来ない、返事も来ない。振られたのかと彼は思ったし、周りも、急に冷めたんだろうって話してた。
明るい人ほど、先に口を閉じる
わかったのは、かなり後です。職場でひどい扱いを受けていた。それを誰にも言わないまま、一人で耐えてた。
私が引っかかってるのは、周りの解釈のほうなんです。誰も、彼女に何かあったんじゃないかとは考えなかった。冷めた、飽きた、そういう恋愛の言葉でしか説明しようとしなかった。恋人が変わったとき、原因は二人の間にあると決めてかかってしまう。実際は、まったく関係ない場所で起きてることのほうが多いんじゃないかと思います。
明るく振る舞える人ほど、しんどい時期に黙る。明るさが、その人の役割になってるから。役割を降りるくらいなら、消えるほうを選ぶ。
断られた三秒後に、彼女が泣き出した
すべてが悪いほうに転ぶわけではない。ゆうたさんの話は、読み違いが逆方向に起きた例だ。
大学四年でした。ずっと好きだった人と、初めて二人で遊園地に行った。朝からずっと一緒で、最後に観覧車に乗った。頂上のちょっと手前で、ずっと好きでした、って言ったんです。
彼女、十秒くらい黙って、ごめん、って。終わったと思って、窓の外を見ました。そしたら急に泣き出して。俺がびっくりして謝ったら、首を横に振って、スマホを出してきた。写真フォルダに、その日に撮った俺との写真が何十枚も入ってた。
私もずっと好きだった、と彼女は言ったという。じゃあなんで、と聞いたら、今日で終わりにするつもりだったから、と返ってきた。
彼女の中では、好きという気持ちが自分で処理できなくなっていて、これ以上続けると壊れると思って、一回全部切るつもりで来てたらしいんです。俺は当日、そんなの一ミリも気づいてなかった。楽しそうにしてたし。表に出てるものと、中で起きてることが、こんなに違うのかと思いました。
二人はその後交際した。彼女に何が起こっていたのかを彼が知ったのは、告白のあとだ。順番としては、たぶんそれが普通なのだろう。
追いかけるのをやめた瞬間、彼女の側で何かが動いた
あかりさん、三十歳、看護師。夜勤明けの、声が少し掠れた状態で話してくれた。
告白されたのは、まだ付き合う前です。断りました。彼、優しかったんですよ。優しすぎた。連絡すればすぐ返ってくるし、こっちの予定に全部合わせてくれるし、意見に反対されたことが一度もなかった。最初は嬉しかったんですけど、だんだん、この人といても何も起きないなと思うようになった。
目盛りが自分の外側にあると、こうなる
断ったあと、彼は本当にやめたんです。追いかけるのを。連絡は普通の頻度になって、飲みの誘いも断られるようになって、私以外の人と楽しそうにしてた。
そしたら急に気になり始めたんですよ。自分でも意味がわからない。断ったのは私なのに。
彼女はそこで一度言葉を止めて、たぶんこういうことだと思う、と続けた。
私、あの人の反応で自分の価値を測ってたんだと思います。即レスが来る、予定を空けてもらえる、それが目盛りになってた。目盛りが消えたら、自分がどのくらいの人間なのかわからなくなって、不安になった。恋じゃないですよね、あれ。恋だと思い込んだけど。今は付き合ってます。付き合ってるけど、始まりがそれだったことは、たまに思い出して気持ち悪くなります。
誰も悪者にできない終わり方もある
けんじさん、三十二歳、営業職。彼女から、話したいことがある、と連絡が来た夜のことを話してくれた。
浮気なら、まだよかった。彼女が泣きながら言ったのは、好きな人ができた、あなたの親友、でした。手は出てない。親友のほうは何も知らなかった。彼女が一人で抱えて、抱えきれなくなって言いに来た。
誰も悪くないんですよ。誰も責められない。それがきつかった。怒る先がないと、感情の行き場がなくなる。俺、あの夜、家に帰ってから何も考えられなくて、電気もつけずに三時間くらい床に座ってました。
彼女を失ったこと自体は、時間で薄まっていった。薄まらなかったのは別のほうだったという。
大切だった二人を、前と同じ目で見られなくなった。親友との縁は切れてないです。今も年に何回か飲む。でも話せないことが増えた。あいつは何も悪くない。何も悪くないやつと、こうなる。恋愛って、恋人だけを持っていくわけじゃないんだな、と思いました。
気づいたあと、何を聞けばよかったのか
六人の話を並べていくと、後悔の中身はだいたい同じところに集まっていた。気づけなかったことではなく、気づいたのに動かなかったこと。
しんごさんの言い方が、いちばん実用的だった。大丈夫かと聞かない。いつからか、と聞く。今日はどうだったか、と聞く。答えが一語で終わらない形にすれば、相手は少しだけ話しやすくなる。返ってこなくてもいい。聞いたという事実は残る。
たくみさんは違うことを言った。俺の場合、もっと早く聞いてても結果は同じだったと思います。ただ、知らないまま笑ってた期間が短くなるだけで、それでも短いほうがよかった。
答え合わせができた人は、六人のうち二人だけだった。残りは、たぶんこういうことだったのだろう、という推測を抱えたまま生活している。たくみさんは海の写真をまだ消していない。しんごさんは、送らなかったメッセージの下書きを一つ残しているそうだ。
彼女に何が起こっていたのか。それが完全にわかる日は、たぶん来ない。来ないまま、みんな次の人と付き合ったり、結婚したり、しなかったりしている。ファミリーレストランを出るとき、たくみさんはメロンソーダを半分残して立ち上がった。もう炭酸は抜けきっていた。