好きな人と、やたらと顔を合わせる時期がある。エレベーターで、コンビニの前で、帰りのホームで。あれは本当に偶然だったのか。やった側の人は、たぶん胸のあたりがざわついているはずだ。やられた側にも、うっすら気づいていた瞬間があると思う。退勤時刻を七分ずらし続けた人から、元恋人の通勤経路に三ヶ月立っていた人まで、五人に話を聞いた。恋愛のきれいな話は、ほとんど出てこなかった。
待ち合わせたのは新宿三丁目の雑居ビル、四階の喫茶店だった。エレベーターがなく、階段の踊り場に古い煙の匂いが溜まっている。窓の外は小雨で、傘立てのビニール傘が全部同じ方向に倒れていた。27歳、事務職あゆみさんは約束の十分前から座っていて、私が腰を下ろすと、おしぼりで指先を何度も拭いた。この話、引かれますよ。そう前置きしてから、彼女は自分の七分について話し始めた。
退勤時刻を七分ずらしていた
声をかけるより、待つほうが安く済むと思っていた
直接、話しかけようとは思わなかったのか。
思いましたよ。何十回も。でも無理でした。私が声をかけて、あの人が困った顔をしたら、次の日から同じフロアで八時間、その顔を見て過ごすことになる。恋愛って失敗しても次があるって言うじゃないですか。職場は次がない。逃げ場のない場所で好きになったのが、たぶん全部の始まりです。
だから退勤を七分遅らせた。あの人がだいたい十九時三分に立ち上がるのは知っていたので、私は十九時十分。エレベーターホールで会える確率が上がるんです。会えなかった日はトイレで五分潰して、もう一回降りてみる。半年、それを続けました。
相手の行動を覚えてしまった夜のこと
これはまずい、と思った瞬間はあったか。
コンビニです。昼にあの人がよく行く店があって、最初は本当にたまたま重なっただけだった。それが、火曜と木曜は十二時二十分ごろ、金曜は少し遅い、みたいなことを、気づいたら覚えてた。メモなんかしてないんですよ。勝手に頭に入ってた。その晩、部屋で一人になってから、私はこの人が好きなんじゃなくて観察してるだけなんじゃないかと思って、うわーってなりました。あの時期の自分がいちばん気持ち悪い。友達にも言えなかった。言葉にしたら終わる気がして。
彼女の声が少し低くなる。ある日、先輩がエレベーターで笑いながら言った。「最近よく会うね」。心臓が耳の裏で鳴った、と彼女は言う。返したのは、そうですね、不思議です、の一言だけだった。
食事に誘われたのは半年後。付き合ってから、あの頃なんとなく意識されてるのは気づいてたよ、と言われて、彼女はしばらく黙り込んだそうだ。恥ずかしさより先に来たのは、仕掛けているつもりで全部見られていた、という感覚だったという。
偶然を装う女性心理の芯にあるのは、拒絶の前払い
断られる痛みを、告白する前に少しずつ払っておく
好意を言葉にするのは、返事の権利を相手に渡すことだ。断られたときの請求書は、全額こちらに来る。偶然を装う人は、その請求書を分割にしようとしている。今日は会えた、今日は会えなかった。小さな失望を毎日ちょっとずつ払っておけば、本当に断られる日が来ても、そこまで高くつかない気がする。実際には安くならない。分割で払ったぶんは、ただ余計に払っただけになる。
騙していた相手は、たぶん自分だった
あゆみさんの言葉で引っかかったところがある。七分ずらしただけだから、私は何もしてない。そう思いたかったんです、と彼女は言った。
偶然という形をとると、自分の気持ちにアリバイができる。これは恋じゃない、たまたまだ、と自分に言い張れる。相手を欺いているつもりで、先に欺かれているのは自分のほうだ。だから偶然を装う日々は、当人にとって甘くない。好きだと認めていない状態で、好きな人を毎日探しているのだから。
元彼の通勤経路に、三ヶ月立っていた
恵比寿のコーヒースタンドの奥、夕方の席で会ったのが美咲さん。三十二歳、デザイナー。話し始めるまでに、砂糖を二回かき混ぜた。
別れて二週間で、連絡先もSNSも全部切られました。この人の世界から私は消されたんだな、と思った。でも、生活のパターンだけは知ってるんですよ。何時の電車か、どの車両か、改札のどっち側から出るか。二年付き合ったので。
週に三回、彼が使う駅に行くようになった。柱の影で待って、改札を出てくるタイミングで歩き出す。すれ違う。目が合う日と合わない日がある。合った日は帰って泣きました。合わなかった日も泣いた。どっちにしろ泣いてた。
何を期待していたのか。
思い出してほしかった。それだけです。話しかける勇気なんてないし、話しかけても言うことがない。でも視界に入れば、一秒くらいは私のことを考えるでしょう。その一秒が欲しかった。今こうやって言うときついですね。気持ち悪いことしてたな、と思います。
やめられた理由は、前向きなものじゃない
二月の寒い日、彼が女性と歩いているのを見た。それでショックを受けて目が覚めた、という話ならきれいなんですけど、と彼女は苦く笑う。
その日も普通に歩いて、すれ違って、帰ったんです。玄関で靴を脱ぎながら、あれ、私いま何も感じなかったな、と気づいた。悲しいでも悔しいでもなく、無。三ヶ月毎日燃やし続けたものが、ある日ふっと燃料切れになる感じでした。決意して終わったんじゃない。疲れて終わった。
相手の中では、まだ二回目
自分の中でだけ、関係が進んでいく
あゆみさんは半年でおよそ四十回、偶然を作った。彼女の中では、その人との時間が四十回ぶん進んでいる。相手の側では、よく見かける後輩が数回印象に残った、という程度だ。この差が開くほど、実際に会話が始まったときの温度が噛み合わなくなる。急に距離を詰めてくる人だな、と思われるのは、たいていここのずれのせいだ。
分かれ目は回数じゃない。相手がその偶然に名前をつけられるかどうかだと思う。あゆみさんの先輩は、最近よく会うね、と言葉にした。その瞬間、偶然は二人の共有物になった。名前をつけられないまま溜まっていく偶然は、片方だけの秘密として重くなる。美咲さんの三ヶ月は、その極端な形だった。
二人とも仕掛けていた
リカさんは現在二十九歳。大学二年のとき、サークルの一つ下の男子に一目惚れした。共通の友人の話から彼の必修の時間割を割り出し、中庭を通る時間と部室に寄る曜日を頭に入れた。
週に三回は会ってました。会うたびに、偶然だね、って笑って。三ヶ月続いて、付き合うことになった。種明かしはその一ヶ月後です。彼が、実は俺も君の時間割を調べてた、と言い出して。中庭のベンチで十分くらい笑い続けました。よく考えたら怖い話ですよね。同じ罠を仕掛け合ってたんだから。
やりすぎとの境目は、たぶん紙一枚
どっちかが片思いのままだったら、通報案件だと思いますよ、と彼女は淡々と言う。
結果がよかったから運命みたいな話になってるだけで、やってることは美咲さんとそんなに変わらない。線を引くとしたら、相手の生活のリズムを変えさせたら越えてる。私は自分の予定をずらしてただけです。あの人に何かをさせたわけじゃない。あの人が道を変えたり、時間を変えたりし始めてたら、そこでやめるべきだった。
バーの隣の席で、逃したもの
さやかさんは三十四歳、会社員。行きつけのバーで気になる男性を見つけ、マスターに来店曜日を聞き出した。同じ酒を頼み、四回、隣に座った。名前も、仕事も、犬を飼っていることも知った。
五回目の日です。後輩の相談に乗ってて、離婚するかどうかみたいな重い話で、私は完全にそっちに集中してた。あとでマスターに聞いたら、彼はその日来て、入口で少し立って、帰ったって。連れの男と深刻な顔で話してるのを見て、彼氏だと思ったらしくて。
場所と時間は作れても、中身は作れない
その後、彼はしばらく店に来なくなった。二ヶ月後に一度だけ会ったが、あの空気はもう戻らなかったという。
こっちが場を作ってるつもりでいたけど、実際に作れてたのは場所と時間だけなんですよ。中身は全部、相手のタイミング次第。それをわかってなかった。四回ぶん積み上げたものが、一晩で消えた。
待っている側同士は、いつまでも出会わない
二十九歳、営業のゆいさんは、毎朝挨拶してくる男性の名前を半年知らなかった。同じ時期に入った別の男性は三日目に名前を聞き、今その相手と交際している。
私は自然な流れを待ってたんです。向こうも待ってたのかもしれない。待ってる人同士って、永遠に何も起きないんですよ。半年ぶんの朝の挨拶が、全部ただの挨拶のまま終わった。
動かないことは、傷つかないことではない
偶然を装う人って、必死でみっともないって言われますよね。私はもう笑えないです。あの人たちは少なくとも動いてる。私は何もしないまま、半年ぶん歳を取っただけだった。何もしなければ傷つかないと思ってたけど、あれは傷つかなかったんじゃなくて、傷つく機会ごと逃してただけでした。
寒い日も、何時間も前から駅にいた人
まゆみさんは四十代。携帯もLINEもない時代、バイト帰りの電車で声をかけてきた男性が、今の夫だ。
結婚して三年目に聞かされました。君が何時ごろの電車で帰るか把握してて、外して待ってた日も何回もあった、って。冬に二時間以上ホームにいたこともあるらしくて。当時は本当に偶然だと思って喜んでたんですよ。運命だと思ってた。
種明かしのあとに増えたもの
がっかりするかと思ったら、逆でした。この人、私のために二時間、寒いホームに立ってたのか、と。今でも喧嘩したときに思い出します。いちばん面倒な方法で私に会いに来た人だ、と思うと、少しだけ冷静になれる。
偶然を装うのは、ずるいことだと思います。でも、ずるさの中身が、時間と寒さと空振りだったりする。それを後から知ると、意味が変わっちゃうんですよね。
取材の終わりに、美咲さんが言ったことがずっと残っている。三年経った今も、あの駅を通るときだけ、無意識に柱のほうを見てしまうという。会いたいわけじゃない。体が覚えているだけ、と彼女は言った。当時の自分を、彼女はまだ許していない。許す必要があるのかもわからない、とも。
伝票を持って立ち上がるとき、彼女は付け加えた。あれって恋だったんですかね、それとも別の何かですかね。私は答えられなかった。店を出ると、雨はもう上がっていた。