一度だけなら、何も思わない。二度目でも、まだ笑える。三度目あたりから、後ろの首すじが冷える。
同じ車両、同じ改札、同じカフェ。相手は毎回、偶然ですね、と言う。その言葉が繰り返されるほど、偶然ではないことがはっきりしていく。
好意そのものが嫌なわけではない。当人たちは全員そう言った。嫌だったのは別のところにあった。
時間を変えたら、いなくなった
大井町の、駅から少し歩いたところにある喫茶店。日曜の午後で、家族連れの声が遠くから聞こえる。ゆきなさん、二十六歳。彼女は最初、言葉を選ぶように話した。
通勤電車です。同じ車両によく乗る人がいて、最初は本当に偶然だと思ってました。時間帯が同じなら、そういうこともあるので。
降りる駅も同じで、改札を出た後も同じ方向に歩く。それも、まあ、あるかなと。
声をかけられるようになったのは一ヶ月くらい経ってからです。あ、偶然ですね、って。
一日だけ帰る時間をずらしてみた
引っかかり始めたのは、週に四回になった頃からだという。
私の帰宅時間、シフト制でばらばらなんですよ。それなのに毎回合う。四回中四回とか。それはさすがにおかしいな、と。
それで、一日だけ全然違う時間に帰ってみたんです。二時間くらい遅らせて。
その日は、いませんでした。
翌日、いつもの時間に戻したら、また現れて。
彼女はここで一度手を止めた。
あれで確信しました。同時に、背中がざわっとして。ああ、この人は私の時間を知ってるんだ、と。
好意は嬉しくなかったですかと聞くと、彼女は首を振った。
嬉しいとかの前に、怖いんですよ。私が把握されてるという事実のほうが先に来る。好きだから見てました、と言われても、じゃあ何時間分見てたんですか、という話になるので。
その後はルートを変えたという。定期を買い直した、と彼女は言った。
気持ち悪さは、好意ではなく非対称から来る
ゆきなさんの話で出てきた、私が把握されている、という感覚。六人全員が似た言い方をしていた。
好意そのものは、たいてい嫌がられていない。直接言われていたら違った、と四人が話した。問題は、情報の量がまったく釣り合っていないことだ。
相手はこちらの帰宅時間、通うカフェ、休憩の時刻を知っている。こちらは相手の名前しか知らない。その差を、相手だけが知っている。
しかも、偶然ですね、と言われた瞬間に、こちらはそれを信じる役をやらされる。信じているふりをして笑い返すか、疑っていることを表に出すか、その場で選ばされる。選ばせているのは向こうだ。
嫌悪の中身は、たぶんここだと思う。好意が嫌なのではなく、こちらが何も知らないまま観察され、そのうえで芝居に参加させられていることが嫌なのだ。
店を変えても、追いついてきた
みほさん、二十九歳。職場近くのカフェでの話だ。
同僚の紹介で一度だけ話したことがある人でした。それだけの関係です。
休憩時間に必ず現れるようになって。ここで会うなんて珍しいですね、って笑顔で来る。最初は、感じのいい人だな、くらいに思ってたんですよ。
週三回、四回と続いて、さすがにおかしいと。
変えた先にも来た
それで、店を変えたんです。二本隣の道にある別のカフェに。
数日は平和でした。四日目に来ました。
そのときは、たまたま通りかかっただけです、って言われて。
彼女は淡々と言った。
たまたま、が二軒目でも成立すると思ってるのが、いちばん怖かったです。
一軒目なら、まだ言い訳が立つ。二軒目に来た時点で、私を探したということなので。それを、たまたま、で押し通そうとする。嘘をつかれてるより、嘘だとわかってて通されるほうがきついんですよ。
同僚に相談し、以降は接触を最小限にしたという。会社には言ってないです、と彼女は付け加えた。大ごとにするほどのことなのか、自分でも判断がつかなくて。
早く帰ったら、すぐ後を追ってきた
さきさん、二十五歳。大学時代の話だ。
同じサークルの人でした。図書館とか食堂とかで、頻繁に会うようになって。
私が席に着くと、しばらくして少し離れた場所から移動してきて、隣に座る。こんなところで会うなんて、って。
毎回同じパターンなんですよ。私が先に座って、後から来る。それが十回以上続くと、さすがに気づきます。私を見つけてから動いてるんだな、と。
決定的だったのは、帰った日
ある日、急用で早めに帰ったんです。図書館を出て、駅のほうに歩いてたら、後ろから彼が来てて。
明らかに、私が立ち上がったのを見て、すぐ出てきたタイミングでした。
そのときに、あ、無理だ、と思いました。
彼女は少し早口になった。
見られてるだけならまだ我慢できたんですよ。私が動いたら、向こうも動く。これは監視されてるのと同じだな、と。
その後もその状態が続いて、私、サークルに行かなくなりました。二年からずっといたところなんですけど。
彼女はここで、少し悔しそうな顔をした。
こっちが場所を捨てるんですよ、こういうとき。向こうは何も失わない。それが理不尽だなと今でも思います。
好きそうな店を、事前に調べられていた
ゆかりさん、三十一歳。休日のショッピングモールでの体験だ。
以前に一度だけ話した人と、その日、何度も鉢合わせしたんです。エスカレーターで、フードコートで、帰りの駅でも。
そのたびに、今日は買い物ですか、偶然ですね、って。同じ言い方で。
三回目には、笑顔を作るのがしんどくなってました。
後から共通の知人に聞いて、事情がわかったという。彼は彼女が好みそうな店を事前に調べていたらしい。
計算が見えると、その日全部が別物になる
それを聞いてから、あの日のことを思い出すたびに気持ち悪くなるんです。
私、あの日、普通に買い物を楽しんでたんですよ。エスカレーターで会ったときも、へえ偶然だな、くらいに思ってた。
その時間が、全部、向こうの計画の中だったとわかると、あの日の私の記憶が使えなくなる。楽しかった記憶として保存できない。
彼女はこう言った。
嫌なのは、後から書き換えられることです。あのときの私は何も知らないまま、笑ってたので。知らないまま笑わされてたのが、いちばんきつい。
打ち明けられた瞬間に、冷めた
まなみさん、二十七歳。彼女の場合は、うまくいきかけていた。
飲み会の帰り、終電近くの駅で、前から気になってた人と乗り合わせたんです。
こんな時間に会うなんて、って向こうも嬉しそうで。隣に座って、話が弾んで、次に会う約束まで取り付けました。
私、あの日、けっこう浮かれてたと思います。運命っぽいな、とか思ってたので。
正直に言われたことで、終わった
その後、彼が打ち明けてきたんです。実はあの日、あなたが乗る電車を調べて待ってた、って。
たぶん、正直に言えば喜ばれると思ったんでしょうね。それくらい会いたかった、という話として。
私は、その瞬間に冷めました。
理由を聞くと、彼女は少し考えた。
好意は嬉しかったんですよ、本当に。嫌だったのは、あの夜の私が、何も知らずに運命だと思って喜んでたことです。
彼はそれを見てたわけじゃないですか。私が勘違いして喜んでるのを、知ってて黙って見てた。あの数時間、私だけが何も知らなかった。
それを後から教えられて、はい嬉しいです、とはならないです。関係はそこで終わりました。
では、どこまでなら許されるのか
六人の話を並べていて、境目らしきものが二つ見えてきた。
一つは、相手の生活を変えさせているかどうか。自分の時間をずらすのは、自分の話で済む。相手がルートを変える、店を変える、サークルに行かなくなる。ここまで来ると、負担が完全に一方に寄っている。
もう一つは、偶然という言葉を使い続けるかどうかだ。
みほさんが言っていた。一回だけ会ったときに、実は会いたくて来ました、って言われてたら、たぶん普通に嬉しかったです、と。あの人は最後まで、たまたま、で通そうとした。そこが駄目でした、と。
打ち明けるタイミングも関係している。まなみさんの相手は正直に話したが、遅すぎた。その場で言えば告白になるものが、後から言うと種明かしになる。種明かしをされた側は、騙されていた時間があったことを知る。
さきさんが最後に言ったことが残っている。
あの人、たぶん悪気はなかったと思うんですよ、と。話しかける勇気がなくて、あれが精一杯だったんだろうな、というのはわかる。
わかるけど、私はサークルを辞めてるので。悪気がないことと、こっちが被害を受けたことは、別なんですよね。
彼女は、いまだにその話を誰にも詳しく話していないという。大したことないと思われそうで、と。
私が過剰に反応しただけかもしれない、って今でもたまに思うんです。でも、あのとき本当に怖かったのも事実で。どっちが正しいのか、自分でもわからないままです。
窓の外で、家族連れが通りすぎていった。彼女はそちらを見ながら、少しだけ黙っていた。