ドアを開けてくれない。荷物を持ってくれない。文字にすると自分でも小さいと思う。友達に言えばそんなことでと笑われそうで、実際に笑われた人もいる。それでも消えない。むしろ日ごとに重くなる。四人に会って、私はなっていいと思った。不満が小さいからではなく、小さすぎて誰にも渡せないからだ。
平日の午後3時、駅ビル四階のチェーンのカフェ。窓際に低いソファ席、通路側に背の硬い椅子が向かい合っている。ミサキさんとハルカさんは友人同士で、二人そろって来てくれた。席に着くとき、ハルカさんは何も言わずに椅子側へ回った。ソファでいいですよと言うと、癖なんです、と笑ってそのまま腰を下ろした。取材の最初の一分に、この記事の話がほとんど出ていた。
気づいたら、いつも自分でドアを開けていた
最初の三ヶ月は、本当に何とも思わなかった
ミサキさん、26歳。交際して一年二ヶ月になる。
彼、優しいんですよ。私が熱出したら薬買ってきてくれるし、仕事の愚痴も最後まで聞いてくれる。だから最初は何も思わなかった。
引っかかりの始まりは、居酒屋の引き戸だったという。
彼がすっと開けて、そのまま入っていったんです。戸が戻ってくる。私が手で押さえて入る。三ヶ月くらいは平気でした。というより、そこを気にする方が面倒な女だと思ってたので。
0.8秒に、意味が生まれてしまう
数えたことありますか、と彼女は逆に聞いてきた。
一回だけ計ったんです。戸が閉まりきるまで、0.8秒。たったそれだけ。その0.8秒のあいだ、彼は一度も振り返らない。ずっと前を見て歩いてる。
そこから見え方が変わった。
一回なら何でもないんです。でも一年で何百回ですよね。何百回、私は彼の背中を見ながら戸を押さえてる。しかも彼は気づいてないから、ありがとうも言われない。いないことになってる感じっていうか。
ソファ側に座られた日から、席のことがずっと気になっている
え、と思ったのに、その場では言えなかった
ハルカさん、30歳。二年つき合った相手と去年別れた。
カフェで、彼が迷いなくソファ側に座ったんです。私は自然と椅子側。理由なんてない。ただそうなった。え、と思ったけど、口には出せなかった。
なぜですか。
そこ私が座りたかった、って言う自分を想像したら、細かくて重い女なんですよ。0.5秒で計算しました。言う方が損だなって。
友人が言葉にした瞬間、それは出来事になった
後日、友人に話した。普通は女性を奥の楽な席にするよね、と返ってきた。
あの一言は聞かなきゃよかったと思ってます。知らないままなら、ただの席だった。言葉がついた瞬間から、毎回そこを見るようになった。店に入るたび、彼がどっちに座るか観察してる自分がいる。あれ、監視ですよ。恋人を監視しながらデートしてる。楽しいわけがない。
車道側の位置も同じだったという。気づいたのは五回目くらい。以降は歩くたびに自分の立ち位置を確認するようになり、会話が頭に入らなくなった。
立件できない不満だけが、消えずに残る
メモアプリに47件
エリさん、29歳。8ヶ月分の記録を見せてくれた。日付と場所と一行だけ。エレベーターで先に乗られた。メニューを先に取られて2分待った。紙袋を持ってと頼んだら、重いから自分で持って、と返された。全部で47件ある。
なぜ記録したのか。
証拠が欲しかったんです。いつかちゃんと話し合うときに、説明できるように。
使いましたか。
一度も。読み返すと全部しょうもないので。エレベーターに先に乗られた、って書いてあるだけだと、性格の悪い女のメモにしか見えない。
一件が軽すぎて、証拠にならない
浮気や暴言は、一件で成立する。名前がついていて、他人に手渡せる。ドアの件は渡せない。一回あたりが軽すぎるから、聞いた側は必ず、そのくらいで、と言う。だから持ち主の頭のなかだけで積み上がっていく。溜まっている量を、本人にも証明できない。
別れ話で理由をうまく言えないのは、口下手だからではない。最初から提出できない形をしているからだ。私はこの手の話を聞くのが一番しんどい。加害も被害も見当たらないのに、片方だけがはっきり削られている。
平等だと思ってた、と言った男の言い分
重いから自分で持って、と口に出した夜
ケンジさん、35歳。二年つき合った相手から、大切にされてる気がしない、と言われて別れた。当時はまったく意味がわからなかったという。
差別しないつもりだったんです。女性だから荷物を持つっていうのが、むしろ失礼だと思ってた。実際、紙袋を持ってと言われたとき、重いから自分で持って、って返しました。手が塞がってたのは事実なんですよ。でも、あの言い方はないですよね。
二年後、後輩の結婚式で気づいたこと
去年の秋、二次会の会場でのことだった。
隣のテーブルの男が、彼女の椅子を引いて、コートを預かって、飲み物を取りに行って。それを全部、しゃべりながらやってるんです。考えてない。呼吸みたいにやってた。
その光景で、彼は自分の順番を思い出した。
俺、店に入って何を見てたかっていうと、空いてる席と、トイレの場所と、メニューなんです。彼女は三番目にも四番目にも入ってない。気遣いができないんじゃなくて、そもそも視界に入れてなかった。平等だと思ってたのは言い訳ですよ。見てないことに、聞こえのいい名前をつけただけだった。
今も直っていないと彼は言った。意識すれば動ける。意識しないと出ない。それは直っていないのと同じだ、と。
伝えた人は、どうなったか
三回言って、そんなの古いと返された
ユイさん、33歳。きっかけは女友達との飲み会だった。みんなの彼氏が当たり前に車道側を歩いている話を聞いて、うちには一度もないと気づいた。
伝えたのは三回です。一回目は冗談っぽく、二回目は真剣に、三回目は泣きながら。返ってきたのが、そんなの古い、でした。
その一言で会話が終わったという。
価値観を否定されたっていうより、私が古い人間だってことにされたんです。それ以上続けると、時代遅れの女になる。反論できなかった。
半年後に別れた。理由は説明できないまま終わったそうだ。
変わった人もいる。ただ、変わり方が問題だった
ミサキさんは一度だけ伝えている。彼はその日から必ずドアを押さえるようになった。
嬉しかったですか。
複雑でした。言われたからやってるのが見えるので。ドアの前で一回止まって、あ、って顔をして、それから手を出す。あの、あ、を見るたびに、これは私が作らせた動きなんだなって思う。
四人に確かめたこと
これは別れる理由になるのか
四人のうち三人が別れている。全員が、理由はそれだけではないと言った。ただ、最初にひびが入った場所として挙げたのは全員が同じ場面だった。ドア、席、荷物、歩く位置。大きな衝突は後から来ている。
悪気がない場合はどうするのか
悪気の有無は、受け取る側にとってほとんど関係がなかった。むしろ悪気がないほど責めにくく、長引く。エリさんの言い方が正確だった。悪気があるなら怒れるじゃないですか。ないと、怒る先がどこにもない。
周囲に言われて気になったのは、影響されただけなのか
三人が友人や家族の言葉を挙げた。彼、ちょっと雑じゃない、と親に言われた人もいる。ただ、言われる前から胸に残っていたものがあり、あとから名前がついただけだと全員が話した。
生活や気分はどう変わったか
エリさんはデート前日に胃が重くなり、月に一度は理由をつけて予定を断るようになった。ハルカさんは店に入るたび席の位置を目で追う癖がつき、別れて二年たった今も抜けない。ユイさんは、外食で自分がどこに座るかを気にしなくなるまで四ヶ月かかったという。
ドアの前の、一瞬
ミサキさんはまだ別れていない。彼はドアを押さえてくれる。押さえてくれるようになった。
でも、と彼女は言った。
ドアの前で一瞬待つ癖がついたんです。自分から手を伸ばさずに、0.5秒だけ待つ。押さえてくれたら、ほっとする。忘れてたら、あ、今日はだめだ、って思いながら自分で開ける。毎回テストしてるんですよ。
やめられますか。
無理です。それに、テストしてることが一番失礼だって、自分でもわかってるので。
窓の外で電車が止まり、また動き出した。ハルカさんが何か言いかけて、水を飲んで、やめた。ミサキさんは椅子の背にかけた上着の袖を、ずっと指で巻いていた。二人とも、最後までソファ側には座らなかった。