大事にしていた。顔色を読んで、言葉を選んで、機嫌が下がらないようにしていた。それなのに、一緒にいると気を遣う、と言われて終わった。何が悪かったのかがわからないまま、次の恋愛でも同じことをやってしまう。八人に会った。気を使っていた側と、使われていた側の両方から聞いた。同じ動作が、二人のあいだで別の意味になっていた。
火曜の夜、駅から十分ほど歩いた場所にある居酒屋の奥の席。厨房から揚げ物の音が絶えず届いて、店員の返事が時々かぶさる。拓也さんは最初、おしぼりを私の前に置いてから自分の分を取った。その動作を見てから話を聞き始めたので、私は最初から半分わかっていた気がする。
気が利くね、と言われるたびに
言われる前に、わかることが誇らしかった
拓也さん、仮名、当時三十歳。二年つき合った相手がいた。
彼女が疲れてる日って、玄関で靴を脱ぐ音でわかるんです。そこそこ長く一緒にいたので。
わかったあと、何をしていたのか。
飲み物を出して、話は振らないです。テレビもつけない。気配だけ置いて、静かにしてました。
その結果、よく言われた言葉があるという。
気が利くね、って。あれを言われるたびに、正解を積んでる気がしてました。テストで丸をもらってる感じ。
一緒にいると気を遣う、と言われた
別れ話で告げられた理由が、それだった。
意味がわからなかったです。気を遣ってたのはこっちなので。
理解するのに、どのくらいかかりましたか。
半年くらいです。ある日、風呂に入ってるときに急にわかりました。
何がわかったんですか。
あれ、優しさじゃなかったんですよ。嫌われる前の不安の処理でした。彼女のためにやってたんじゃなくて、機嫌が下がる瞬間が怖くて、それを起こさないように動いてただけです。
彼はそこで一度、ジョッキに手を伸ばして、飲まずに置いた。
だから俺、彼女のこと見てなかったんですよ。二年一緒にいて、見てたのは彼女じゃなくて、機嫌が下がる瞬間だった。
察するのをやめてから、人の話を聞けるようになった、と彼は言った。
楽しい、大丈夫、を繰り返される側
同じ穴に落ちる例として、確認を繰り返す型の話も聞いた。
デート中に、楽しい、って三十分おきに聞かれました、と二十代の女性が言った。
あと、大丈夫、無理してない、疲れてない。全部で一日に十回以上は聞かれたと思います。
それがなぜきついのか。
笑顔を切らせなくなるんですよ。楽しいって証明する側に回るので。少しでも真顔になると、また聞かれる。
顔色をうかがわれると、気が抜けない。彼女はそう言った。
あと、何でも合わせてくるんです。店も、時間も、行き先も。そうすると、その人がどこにいるのかわからなくなる。対等な感じが消えるんですよ。
裏を読みすぎて、切られた側
何気ない一言に、全部意味がつく
逆方向の話も聞いた。彼女が言葉の裏を読みすぎて、相手が限界になった例だ。
今月ちょっと使いすぎた、って言っただけなんです、と三十代の男性は言った。
そしたら彼女が、デート代も出してもらってごめんね、って謝り始めて。そういう話じゃないんですよ。物価高いね、で終わる話なので。
似た場面が何度もあったという。
ヘトヘトだって言うと、疲れてるのに連れ出してごめん、って。明日は寝てたいって言うと、会いたくないってこと、私なんかした、って。
会話が休憩にならなくなる
彼が疲れた理由は、その解読作業だった。
毎回フォローするんです。そういう意味じゃないよ、大丈夫だよ、って。それが仕事になっていきました。
何を求めていたんですか。
体力回復大事だね、で受け止めてほしかっただけです。それだけでした。
察してあげないと拗ねる、という部分もあったという。
サインを読む作業が入ると、会話が休憩にならないんですよ。家に帰っても頭を使ってる。それが二年続いて、無理でした。
気遣いが、監視に近づくとき
冷蔵庫が空だと、すぐ買いに行こうとした
大学生の女性の話も聞いた。彼女は、気を使いすぎる側だった。
彼の家に行って、冷蔵庫を開けて何もないと、じゃあ買ってくるね、ってすぐ動いてました。
相手の反応は。
召し使いみたいで申し訳なくなる、って言われました。
その言葉をどう受け取ったのか。
最初は理解できなかったです。良かれと思ってやってるので。でも後から、彼が言ってたのは、俺の前ではもっとだらけててほしいってことだったんだと思います。
親しい相手に気を使われすぎると、よそよそしさが残る。彼女の相手が言いたかったのは、たぶんそこだった。
五年続けた完璧なデート
もうひとつ、印象に残った話がある。記念日のサプライズと、隅々まで組んだデートを五年続けた男性の相手が、静かに距離を取った例だ。
嬉しかったんですよ、最初は、とその女性は言った。
でも三年目くらいから、行かなきゃ、って思うようになりました。応えなきゃ、って。
負担になっていったんですか。
彼が頑張ってくれた時間が、借りに変わっていくんです。返せない借りが毎月増える感じで。しかも、こんなことで文句を言ったら罰が当たるので、言ってもしょうがないって思ってました。
喜ばせ続けられると、申し訳なさに変わる。この転換は、やっている側からはまず見えない。
同じ位置で、ずっと合わせ続ける
機嫌の変動が激しい相手に、気を使い続けた男性の話も聞いた。
怒らせるのは自分のせいだと思ってました。だから要望には全部応えてた。
どこまでやったんですか。
胸ぐらをつかまれたことがあります。それでも説明してました。誤解を解こうとして。
終わりにした理由は。
合わせるために自分の生活を犠牲にするのは、さすがにおかしいと思ったからです。気づくのに三年かかりました。
束縛、飲み会のたびの説明、連絡頻度のずれ。気疲れの材料はいくつも出てきた。
疲れてることと、愛情がなくなったことは別です、と彼は言った。
好きではあったんですよ、ずっと。ただ、気が休まらない状態が続いたら、我慢の恋愛になります。それは別の問題なので。
一方通行の気遣いは、持たない
私だけが気を遣って、相手は自由。この組み合わせは地獄だという言い方を、複数の人がした。
言わないとわからない側と、言わせないで察してほしい側が組むと、不満と疲労だけが溜まる。
うまくいっている人の話も聞いた。
ゆるく分けてます、と三十代の女性は言った。
抜けてたら自然に埋める、くらいで。完璧にやろうとしない。そのほうが長く持ってます。
もうひとつ、鋭い指摘があった。
みんなに配る優しさって、見抜かれるんですよ。私だから、っていう部分がどこにもないので。
彼女は具体的な場面を挙げた。
仕事で落ち込んで、会いたいって送った日があるんです。返ってきたのが、無理しないで休みなよ、でした。優しいですよね。
でも、と彼女は続けた。
私は、予定を崩して来てくれる一回が欲しかったんです。優しいのに、大事にされたことがないなって。嫌われるのが怖いだけの優しさって、配給みたいに見えます。
気を使う側が、自分で疲れる場合
好きな人の前でいい自分でいようとして、疲れてしまう女性の話も聞いた。
合わせすぎるんです。行きたくない店でも行きたいって言うし、疲れてても平気なふりをする。
いつ限界が来るんですか。
帰り道です。改札を通った瞬間に糸が切れます。楽しかったはずなのに、涙が出たことがありました。
彼女は自分の癖をこう分析した。
好きだから気を使ってるつもりだったんですけど、途中から、気に入られたいための優しさになってました。自分のためにやってるんですよ。だから自分の感情がお留守になる。
年齢が上がるほど、その仮面は息苦しくなる、とも言っていた。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
気を使うことの何が問題なのか
動作が先に立って、中身の話が後回しになるからだ、というのが八人の話に共通していた。拓也さんは二年、相手の機嫌だけを見ていた。会話は増えていない。
言われた側は、どうすればいいのか
察するのをやめる、というのが拓也さんの答えだった。先回りを止めると、聞くしかなくなる。それで初めて相手の話が入ってくるようになったという。
気を使われる側は、なぜ嫌なのか
三つ出てきた。証明を求められる。対等さが消える。返せない借りが増える。どれも、やっている側からは見えにくい。
疲れたら別れるべきなのか
疲れていることと、好きでなくなったことは別だ、と複数の人が区別していた。ただし、気が休まらない状態が続くなら、それは我慢に変わっている。三年かけてそこに気づいた人がいた。
どういう関係なら持つのか
ゆるく分担して、抜けを自然に埋め合う形だ、という答えが多かった。完璧にやろうとした人ほど、早く終わっている。
おしぼりの順番
拓也さんは今、別の相手と付き合っている。
まだ癖は残ってます、と彼は言った。
さっき、俺、あなたのおしぼり先に置きましたよね。ああいうのは、たぶん一生抜けないです。
直すつもりはあるんですか。
動作は直さなくていいと思ってます。問題は、それをやったあとに黙るかどうかなので。
どういう意味ですか。
前は、置いて終わりだったんです。今は、今日疲れてる、って聞くようにしてます。当てにいかない。聞く。それだけの違いなんですけど、けっこう難しいですね。
彼はそこで初めてジョッキを持ち上げて、半分ほど飲んだ。厨房で何かが揚がる音がして、店員が大きな声で返事をした。彼はそちらを一度見て、視線を戻した。それ以上、前の相手の話はしなかった。