優しい彼氏で幸せだね、と言われるたびに、うまく笑えなくなる時期がありました。傘を持って迎えに来てくれる。熱を出せば一晩中看病してくれる。毎朝、好きだよと言ってくれる。文句のつけようがないんです。なのに、なぜか胸の奥がじりじりする。贅沢な悩みだとわかっているから、誰にも言えない。今回話を聞いた女性は、その言えなさのまま二年間を過ごした人でした。
平日の昼下がり、郊外のカフェの窓際で待ち合わせました。光がよく入る席で、ハルカさんはアイスコーヒーを前に、少し気まずそうに笑いました。
「先に言っておくと、これ、すごく贅沢な話なんです。彼は本当にいい人で、私は何の文句もない。なのにしんどかったって言うと、頭おかしいって思われそうで、ずっと黙ってました」
彼女はストローで氷をかき混ぜながら、ぽつぽつと話し始めました。
めちゃくちゃ優しい彼氏の、完璧な日常
傘も看病も毎朝の好きだよも、全部そろってた
ハルカさんの彼は、絵に描いたような優しい人だといいます。
「雨が降りそうな日は、私が傘を忘れたって気づいて、会社の最寄りのコンビニで待っててくれるんです。傘と、温かいお茶を持って。残業で遅くなった夜は、肩を揉んで、今日はもう何もしなくていいよって。料理も彼のほうが上手で、生理でお腹が痛いときは黙ってスープを作ってくれる」
家事の分担も、彼が七割は担っていたそうです。
「私が仕事でミスして落ち込んでたとき、慰めの言葉を並べるんじゃなくて、ただ黙って抱きしめて、君は頑張ってるよ、俺は味方だからって。誰に対しても優しくて、道で迷子の子に声かけたりする人なんです。友達にも、いい彼氏だねって毎回言われて。付き合って二年、毎朝の好きだよを一度も忘れたことがない」
聞いているだけで、こちらが羨ましくなるような話でした。それを正直に伝えると、彼女は困ったように目を伏せました。
なのに、ある夜から息ができなくなった
「ですよね。だから余計に、自分が嫌になるんです」
転機がいつだったか、彼女ははっきり覚えていました。付き合って一年が過ぎたある夜、彼が作った夕飯を二人で食べていたときのこと。
「彼が、今日も一日おつかれさま、って笑ってて。私、それを見ながら急に、なんでこの人こんなに優しいんだろうって思っちゃったんです。怖くなった、って言ったほうが近いかな。理由はわからないけど、その夜、ベッドに入ってから息が浅くなって、なかなか眠れませんでした」
優しさに包まれているはずなのに、なぜか窒息しそうになる。その感覚の正体を、彼女はその後ずっと探すことになります。
「最初は、自分が満たされすぎてバチが当たる、みたいな迷信だと思ってました。でも違った。もっと具体的な、ちゃんと理由のあるしんどさだったんです」
怒らない人の本心は、どこにあるのか
一度も声を荒げない彼が、逆に怖い
掘り下げていくと、ひとつ目の理由が見えてきました。彼が一度も怒らないこと。
「二年間、彼が声を荒げたことが一度もないんです。私がわがまま言っても、かわいいなって受け止める。約束をすっぽかしても、大丈夫だよって。最初は神様みたいだと思ってました。でもある時期から、この人、本当は何を考えてるんだろうって、わからなくなって」
彼女は言葉を選びながら続けました。
「人って、相手が何で笑って何で怒るかが見えると、安心するじゃないですか。地雷の場所がわかるから、近づける。でも彼は、地雷が一個も見当たらない。優しさで地面が真っ白に塗られてて、どこを踏んでも何も起きない。それがだんだん、彼の本心が一枚布の下に隠れてるみたいに思えてきて」
ここに、優しさのいちばん語られない落とし穴があると私は思います。怒らない人が安全とは限らない。怒り、不満、欲。そういう輪郭が見えないと、相手という人間の地図が描けない。地図のない相手の隣にいるのは、温かいようでいて、足元が見えない夜道を歩くのに似ています。彼女が怖くなったのは、彼が冷たいからではなく、彼の本心の在処が、優しさという布の下でずっと見えなかったからでした。
「彼の取扱説明書を作ろうとしても、全ページ真っ白なんです。何をしたら嫌がるか、本当のところ何が欲しいのか、二年いても書けない。それがすごく、心細かった」
もらうばかりで、申し訳なさだけ積もる
ふたつ目の理由は、もっと自分の側にありました。
「彼が優しければ優しいほど、私が何も返せてない気がして、申し訳なくなるんです。傘を届けてもらう。看病してもらう。家事もやってもらう。もらってばかりで、私は彼に同じだけ返せてない。その差が、毎日ちょっとずつ借金みたいに積もっていく感覚があって」
尽くされることが、なぜ重荷になるのか。
「対等じゃない気がしてくるんですよ。彼が上で、私が下、みたいな。愛されてるのに、自分が劣ってる感じがして惨めになる。しかも、ありがたみが麻痺してくる自分にも気づくんです。最初は感動してた毎朝の好きだよが、いつのまにか当たり前の挨拶みたいに聞き流すようになってて。それに気づいたとき、私って最低だなって、自分を責めました」
もらう一方の優しさは、受け手の中で負債に変わることがあります。返せない申し訳なさと、慣れて鈍くなる自己嫌悪。その二つに挟まれて、優しさを素直に喜べなくなっていく。彼女が苦しかったのは、彼の愛が足りないからではなく、彼の愛が多すぎて、受け止める自分の器が追いつかなかったからでした。
「正直、一度だけ、別れたほうが彼のためなんじゃないかって思ったこともあります。私みたいに優しさを持て余す人間より、ちゃんと喜べる人と一緒になったほうが幸せなんじゃないかって。今思うと、それも自分への言い訳だったんですけどね」
たまには私に、怒ってほしかった
本心をぶつけて、と泣いて頼んだ日
何も言わずに別れる、という選択肢もあったはずです。でも彼女は、最後にひとつだけ試したことがありました。
「ある夜、思いきって言ったんです。あなたはいつも優しいけど、たまには私に怒ってほしい、本音を見せてほしいって。震えました、言うとき。優しくしてくれてる人に、その優しさが苦しいなんて、ひどい話じゃないですか」
彼の反応は、意外なものだったそうです。
「彼、けっこう長く黙って、それから小さい声で、実は俺もずっと怖かった、って言ったんです。嫌われたくなくて、本音を出したら離れていかれそうで、だから優しくし続けるしかなかったって。彼の親、すごく仲が悪くて、怒鳴り合いを見て育ったらしくて。だから自分は絶対に怒らないって決めてたんだ、って」
そこで初めて、真っ白だった取扱説明書に、一行だけ文字が書かれたといいます。
「彼の優しさは、愛情でもあったけど、半分は不安の裏返しだったんです。怒ったら嫌われる、っていう彼自身の怖さが、ずっと優しさの形をしてた。それがわかった瞬間、なんだか涙が出ました。ああ、この人もちゃんと怖がってたんだって。神様じゃなくて、私と同じ、びくびくしてる人間だったんだって」
晴れたわけじゃないけど、息はできる
それで全部解決したのか。私がそう聞くと、彼女は首を横に振りました。
「いや、全然です。彼は今もあんまり怒らないし、本音もぽろっとしか出ない。私のほうも、もらった優しさをうまく返せてるかって言われたら、自信ない。借金の感覚も、正直ゼロにはなってないです」
ただ、ひとつだけ変わったことがあるといいます。
「優しさを、ありがとうって受け取る練習をしてるんです。前は、申し訳ないって突き返してた。でも今は、彼が優しくしてくれたら、嬉しい、助かった、ってちゃんと言葉にして渡すようにしてて。それが私なりの、返し方なのかなって。完璧な対等にはなれなくても、感謝を渡すことならできる」
最後に、あの夜の窒息感は消えましたか、と尋ねました。彼女は少し考えて、こう言いました。
「消えてないです。たぶん、彼の本心が全部見える日なんて来ない。でも、息はできるようになりました。あの人にも見えない部分があって、私にも受け取り下手なところがあって、お互いそのまま、だましだまし隣にいる。それでいいことにしたんです」
カフェの窓から差す光が、彼女のグラスの中で揺れていました。優しい彼氏がいて幸せ、という言葉の内側に、こんなにこみ入った感情が畳まれていることを、たぶん多くの人が口に出せないまま抱えている。ハルカさんは席を立つとき、ぽつりと言いました。優しさって、もらうほうにも技術がいるんですね、と。それは、この日いちばん長く私の胸に残った一言でした。