何も言われていない。触られてもいない。それなのに、空いているのに隣に来るというだけで背中が冷える。この感覚を人に話すと、気にしすぎだと言われがちだ。わざわざ近くに来る男性を気持ち悪いと感じる人が七人集まって、当時の状況を細かく再現してもらった。全員が、被害と呼べる出来事は起きていないと前置きし、そのうえで場所を変えていた。
聞き取りは平日の昼に行った。三人目のあたりで、私の座る位置についての質問が出た。斜め前でいいですか、と。正面より落ち着くらしい。その理由が、そのまま今回の話の核心だった。
何もされていないのに、逃げている
空いている電車で、隣に座られる
二十九歳のアカリさんの話から始まった。
「電車が空いてるのに、わざわざ隣に座ってくる人がいたんです」
どのくらい空いていました。
「一車両に十人いないくらいです。私、いつも同じ時間なので」
何日続きました。
「三日目に、あれ、と思って。四日目でもう確信しました」
その人は何かしましたか。
「何もしないです。座るとすぐスマホをいじり始める。ただ、少しずつ体が寄ってくる感じはあって」
声をかけられたことは。
「一度もないです。だから、余計に説明しにくくて」
どうしました。
「途中の駅で降りて、別の車両に乗り換えました。何回も」
被害はないと言われそうですね。
「言われると思います。実際、何もされてないので。ただ、空いてるのにわざわざ近くに来るっていう行為そのものが、意図を感じさせるんですよ。そこが気持ち悪かった」
何もされていないから、誰にも言えない
七人全員がこの構造の中にいた。触られていない。声をかけられていない。したがって、相談する言葉がない。
三十七歳のケイコさんは、ジムでの話をしてくれた。
「同じ時間帯に来る男性が、私の近くのマシンばかり選ぶようになって」
近くというのは。
「隣か、正面です。ストレッチしてると、わざわざ位置を変えて近くで同じ動作を始めるんですよ」
鏡越しに。
「視線を送ってきます。鏡があるので、こっちからも見えるんです」
スタッフには。
「相談しようか迷いました。でも、被害を受けてるわけじゃないよね、って言われそうで」
言えなかった。
「言えなかったです。だって、隣のマシンを使うのって自由でしょ。それを禁止できるわけがない」
どうしましたか。
「通う時間を変えました。それが一番早かったので」
自分の行動を変えたことについて。
「悔しいですよ。会費を払ってるのはこっちなのに。ただ、他に方法がなかった」
不快の正体は、視線ではなく追随
三十四歳のミホさんの体験は、もっとはっきりした形をしている。
「スーパーの売り場で、同じ商品を見てる男性がいたんです」
そこまでは普通ですね。
「普通です。問題は、私が別の場所に移動したら、その人もすぐ同じ場所に来て近くで立ち止まったことで」
一回だけなら。
「偶然ですよね。でも数回繰り返されると、明らかについてきてるってわかります」
どう対処しました。
「店員さんの近くに行きました。あと、急に方向を変えて。それでもしばらく視線を感じてました」
彼女はそこで、はっきり言った。
「あれ、こっちが不快に思ってるかどうかを、まったく考えてないんですよ。自分の都合だけで動いてる」
二十六歳のユイさんの話も同じ形だ。大学の図書館で勉強していたら、遠くに座っていた男性が、いつのまにか近くの席に移動していた。
「最初は席が空いてただけかと思いました」
そうではなかった。
「トイレに立って戻ったら、また近くに座ってたんです。それでわかりました」
その人は何を。
「本を読んでるふりをしながら、ちらちら見てました」
声はかけられなかった。
「図書館なので。あの場所、声を出せないんですよ。だから何も言えなくて、不快感だけ溜まっていく」
彼女は続けて、少し複雑な言い方をした。
「わざわざ近くに来るのって、気づいてほしいっていう気持ちの表れなのかもしれないですよね。ただ、受け取る側にとっては迷惑でしかないです」
七人の証言を並べると、不快の引き金は視線ではないことがわかる。同じ空間にいるだけなら誰も気にしていない。全員が反応しているのは、こちらが動いた後に相手も動いたという事実の方だ。
一回なら偶然として処理される。二回目で疑いが立ち、三回目で確定する。この検出は、悪意を推測しているのではなく、自分の移動と相手の移動が連動しているという単純な観測結果に基づいている。
距離が縮まると、逃げ道が減る
三十一歳のサキさんの体験だけ、危険度の段階が違う。
「夜道を歩いてたら、後ろから近づいてくる男性がいて」
最初は。
「同じ方向に帰る人かと思ってました。よくあることなので」
何で気づきました。
「私が速く歩くと、相手も速くなるんです。ゆっくりすると、ゆっくりになる」
速度が同期している。
「同期してます。あれで、あ、違うって」
その後は。
「わざと近くに寄ってきて、すれ違いざまに目を合わせようとしてくる感じがして。怖くなってコンビニに駆け込みました」
店員さんには。
「事情を話して、しばらく待たせてもらいました。あれは本当に助かりました」
二十八歳のマナミさんの話も、移動を伴っている。
「バスを待ってるときに、同じ停留所の男性が、私のすぐ後ろに立ってきたんです」
スペースは。
「ありました。周りに、けっこう」
そのあとは。
「バスが来たら、同じドアから乗ろうとしてきて。車内でも近くに座ろうとして」
どうしました。
「怖くなって、途中の停留所で降りました。行き先じゃないところで」
彼女はそのときのことを、こう説明した。
「嫌だって思ってるかどうかを、あの人は考えてないんですよ。自分の欲求だけで動いてる」
同じ場所に留まっている場合と、移動を伴う場合では、緊急度がまったく違う。前者は不快で済むことが多い。後者は、こちらの逃げ道が段階的に減っていく。
気にしすぎだと言われる構造
四十三歳のノリコさんは、職場近くのカフェの話をしてくれた。
「店内が空いてるのに、わざわざ隣のテーブルを選ぶ人がいて」
一度なら。
「一度なら何とも思わないです。何度も同じことが続いたので」
何回くらい。
「五回か六回ですかね。週に何度か行ってたので」
どうしました。
「そのカフェに行くのをやめました。職場から一番近くて、便利だったんですけど」
彼女は少し困ったような顔をした。
「これ、人に言うと、被害妄想じゃないって言われるんですよ。実際、何もされてないので反論できない」
自分でも疑いましたか。
「疑いました。何回も。私が過敏なだけかもって」
今は。
「今は、あれで正しかったと思ってます。ただ、当時はずっと自分を疑ってました」
ここが、この種の不快感の厄介なところだ。判断材料が、こちらの主観的な観測しかない。相手は何もしていないので、証拠が残らない。だから第三者に説明すると、確認できる事実がゼロの話になる。
結果として、当事者は自分の感覚を疑い、確信が持てないまま場所を移す。会費を払ったジムの時間帯を変え、便利なカフェをやめ、乗る車両を変える。負担は全部こちら側に発生する。
好意だとしても、届き方が変わるわけではない
ユイさんが言った、気づいてほしいという気持ちの表れかもしれない、という部分について、他の人にも聞いた。
ケイコさんの答えははっきりしていた。
「そうだとしても、関係ないです。私が受け取ったのは不快感なので」
ノリコさんも同じだった。
「興味があるからなのかもしれないですよね。でも、受け取る側にとってはただの不快感です。動機は関係ない」
アカリさんの言い方が一番具体的だった。
「もしその人が私に興味があるなら、隣に座る前に確認する方法がいくらでもあるでしょ。近づくのが一番簡単だから近づいてるだけです。相手が逃げられない状況で」
彼女は少し間を置いた。
「近づくって、相手の選択肢を減らす行為なんですよ。電車の中だと特に。座られたら、こっちが移動するしかない」
結局、全員が場所を変えた
七人のうち、相手に何かを言えた人はいなかった。全員が、自分の側の行動を変えている。
車両を変える。時間帯を変える。店をやめる。バスを途中で降りる。
サキさんに最後に聞いた。あのとき、何ができたと思いますか。
「何もできないです。実際、逃げるしかなかった」
警察は。
「呼べないでしょ。後ろを歩いてるだけなので」
彼女はそう言ってから、少し声のトーンを落とした。
「ただ、コンビニに駆け込んだ判断だけは、自分でよくやったと思ってます。あのとき、店員さんに事情を話すのがすごく恥ずかしかったんですよ。勘違いだったらどうしようって」
恥ずかしさが勝つこともある。
「勝ちますね。私の場合は、たまたま怖さの方が上回っただけです」
今も同じ道を通りますか。
「通ります。ただ、あの時間には歩かないようにしてます」
彼女は鞄を持ち直して、店の入口の方を一度見た。それから、外に出る前にもう一度だけ振り返った。