コピー機の前に立つと、なぜか彼もそこにいる。休憩室で座ると、隣に来る。会議室で空いている席がいくつもあるのに、選ぶのはこちらの近く。
話しかけてくるわけではない。ただ、いる。この状態が数週間続くと、意識せざるを得なくなる。
近くに来ていた男性三人と、近くに来られた女性三人から聞いてみると、やっていた本人にも理由がよくわかっていないケースが多かった。
コピー機の前に、必ずいた人
浜松町の、ビルの一階に入っているカフェ。昼を過ぎて空いてきた時間帯。あゆみさん、二十六歳、会社員。彼女はやや面白がっている口調で話し始めた。
同じフロアの人でした。前は普通だったんですよ。挨拶して、たまに仕事の話をする程度。
ある時期から、やたら近くにいるようになって。コピー機で作業してると、必ず来る。私が使い終わる頃に来るんです、絶妙に。休憩室で座ってると、隣が空いてても他が空いてても、隣に座る。
話しかけてはこないんですよ。それが不思議で。
声をかけたら、たまたま、と返ってきた
一ヶ月くらい続いて、さすがに気になって、こっちから聞いたんです。最近よく会いますね、って。
そしたら、たまたま、って。顔が赤くなってましたけど。
それで終わりかと思ったら、その後も距離は同じままでした。近くに来るのはやめない。でも話しかけない。二ヶ月くらいその状態が続きました。
食事に誘われたのは、その後だという。
たぶんあの二ヶ月、ずっと言い出すタイミングを探してたんだと思います。近くにいるのは、その準備だったのかもしれない。
近くに行くのは、話すためではないらしい
たくみさん、二十九歳、営業職。彼が話してくれたのは、やっている側の感覚だ。
自覚がなかったんですよ、最初は。友達に言われて初めて気づきました。お前、あの人の近くばっかりいるな、って。
言われてみたら、会議室で席を選ぶときも、無意識に近いところを取ってた。廊下で見かけたら歩く速度を微調整してるし、帰りのエレベーターも合わせてた。全部、たまたまだと思ってたんです。
なぜ近くに行くのか。この質問に、彼は少し時間をかけた。
話さなくても、いるだけで足りている
安心するんですよ、そばにいると。それだけです。
会話したいわけじゃないんです、あの時期は。話しかけたら、何か決まってしまう気がして。返事が素っ気なかったら終わるし、盛り上がっても次のことを考えなきゃいけない。
近くにいるだけなら、何も起きないじゃないですか。何も起きない代わりに、何も失わない。あの状態、けっこう快適だったんです。
彼はここで少し苦い顔をした。
だから、なかなか次に行けないんですよ。居心地がいいので。あの状態を半年やった相手もいます。半年やって、何もないまま部署が変わって終わりました。
ここにいると落ち着く、と言われた
けいこさん、三十一歳、看護師。彼女の話は、もっと静かだった。
気になってた先輩が、休憩時間になると近くにいるんです。ナースステーションでも、休憩室でも。
話しかけてはこない。ただ同じ空間にいる。私が移動すると、しばらくして向こうも移動してくる。
自分では、たまたまだと思ってました。気づいたのは、同僚に言われてからです。あの人、けいこちゃんのそばにいるよね、って。
用がないことが、答えだった
言われて意識するようになって、ある日、こっちから聞いたんです。何か用ですか、って。
そしたら、特にない、ここにいると落ち着く、って。
彼女はそのときのことを、少し笑いながら話した。
変な答えですよね。用がないのに近くにいる理由を、用がないから、って説明されてるので。
でも、あれが本当だったんだと思います。用があるから近くに来てる人じゃなかった。理由がないのに来てるという事実が、そのまま答えでした。
そこから少しずつ会話が増えたという。
言葉より先に、体のほうが近づいてたんだと思います。本人が自覚するより先に。
近くに来ることが、脈ありとは限らない
ここまで読むと、近くに来る行動は好意のサインだ、という話に見える。ただ、りなさんの体験はそこに一本線を引く。三十三歳、フリーランス。
ある男性が急に近くに来るようになったんです。飲み会でも隣だし、職場でもよく話しかけられるし。
私、完全に好意だと思いました。近くに来る、目が合う、話しかけてくる。全部揃ってるじゃないですか。
話しやすいから、という理由だった
しばらくして、その人と普通に話す機会があって、なんとなく聞いてみたんです。そしたら、りなさん話しやすいから、って。
それだけでした。深い関心はゼロ。ただ、居心地がいい人の近くにいるという、それだけのことだった。
がっくりきましたけど、後から考えたら、私の読み方が雑だったんです。
近くに来る行動って、好意でも起きるし、単に安心できる相手でも起きるんですよ。理由が違っても、行動としては同じものが出る。だから行動だけでは区別できない。
見分けるとしたら、どこか
彼女なりの結論を聞いた。
私が後から気づいたのは、あの人は誰に対してもそうだったってことです。私だけじゃなかった。
好意で近くに来る人は、その人限定なんですよ。他の人には普通の距離を取ってる。あと、緊張してます。近くにいるのに、なぜかぎこちない。
話しやすいから近くに来てる人は、逆にリラックスしてるんです。普通に喋るし、目も普通に合う。
近い、だけで判断すると、私みたいになります。近くにいるときのその人の状態を見たほうがいいです。
隣に座り続けて、何も言わなかった一年
まゆさんが話してくれたのは、二十四歳、大学生だった頃のこと。
サークルの男の子です。練習の後、必ず私の近くに座るようになって。
最初は気づいてなかったんですよ。他のメンバーが、あいつまゆの隣ばっかりだな、って笑ったので、初めて意識した。
積極的に話す人じゃなかったです。隣に座るけど、会話は普通。距離だけが近い。
一回、冗談で、近いよ、って言ったんです。そしたら慌てて離れて。でも次の日にはまた近くに来てました。
近くにいるだけで満足していた時期がある
後から本人に聞いたら、好きだったから自然とそばにいたくなってた、って。
もう一つ言われたのが、話しかける勇気がなくて、近くにいることだけで満足してた時期がある、っていう言葉で。
これ、けっこう衝撃でした。私、近くに来るのは何かのアプローチだと思ってたので。そうじゃなくて、あれで完結してたんですよ、彼の中では。
一年近くその状態だったらしいです。一年、隣に座って、それで満たされてた。
話しかけるタイミングがわからない、という状態
さやかさん、二十七歳、事務職。彼女が戸惑ったのは、近くに来るのに話しかけてこない相手だった。
行きつけのカフェで、なぜか毎回、彼の席が近くなるんです。目は合う。合うけど、声はかけられない。
これが二ヶ月くらい続いて、こっちが耐えられなくなりました。何なんだろう、と思って。
待っていると、何も起きないまま終わる
ある日、私から聞いたんです。いつも近くにいますよね、って。
そしたら、話しかけるタイミングがわからなくて、でも、そばにいたい気持ちはあった、って正直に言われて。
そこから会話が始まりました。
彼女はここで少し語気を強めた。
私が思ったのは、あのまま待ってたら、何も起きずに終わってたということです。
彼は近づく能力はあるけど、話し出す能力がなかった。近づくのは一人でできるけど、話すのは相手が必要なので。だから、どこかで誰かが一言目を出さないと、永遠に近いままなんですよ。
近くにいる人を、待たなくていいと思います。二ヶ月近くにいたなら、もう答えは出てるので。
六人に共通していたのは、近くに来る側が、そのことを説明できないという点だった。たくみさんは友人に言われるまで自覚がなく、けいこさんの先輩は落ち着くから、としか言わなかった。まゆさんの相手は一年それを続けていた。
はっきりしていたのは、近くに行くのは一人でできて、話しかけるのは二人いないとできない、ということだ。近くに来る人は、一人でできるところまでは全部やっている。そこから先で止まっている。
さやかさんが最後に言ったことが残っている。あの二ヶ月、私も待ってたんですよ、と。だから、待ってる人が二人いたってことです。それって、何も起きないですよね、と彼女は言った。
あゆみさんは今、その人と続いている。近くに来る癖は直ってないですよ、と彼女は笑った。家でも近いです、なぜか。ソファが三人がけなのに、必ず隣に来る。それ、と言うと、たまたま、と返ってくるらしい。何年経っても同じ返事なんです、と彼女は言った。