キスもした。次の約束もあった。それなのに、返信の間隔が伸びて、会う話が消えて、気づけば何も残っていない。付き合っていないから別れる手続きもない。友達に話せば、そもそも付き合ってないんでしょ、で片づけられる。その一言が刺さるのは、正しいからだ。正しいのに、こちらの胸は空いたまま。六人に会って共通していたのは、痛みの大きさではなかった。痛みに申請書が出せないという、その一点だった。
日曜の朝10時、住宅街の中にあるコインランドリー併設のカフェ。洗剤の匂いと焼いたパンの匂いが混ざって、換気扇が低く鳴っている。窓際の席で、カナさんはコーヒーに二回砂糖を入れた。入れてから、いらなかったかも、と小さく言った。話の最初から最後まで、彼女は相手のことを、あの人、としか呼ばなかった。
終わりの日がないから、終われない
最後に会ったのは、二月の水曜だった
カナさん、28歳。マッチングアプリで知り合って、四ヶ月ほど会っていた相手がいる。
最後に会った日、キスしました。帰りの改札で。電話でも次のご飯の話をしてて、来月あの店行こうって決めてたんです。
そこから変化が始まった。
返信が二時間から半日になって、半日が二日になって。会う話は自然に消えました。何も言われてないんですよ。もう終わりです、も、ごめん、もない。
別れられないという状態
彼女がいちばんきつかったのは、区切りが存在しないことだった。
別れる、って手続きができないんです。付き合ってないので。だから終わった日がわからない。二月の水曜なのか、返信が二日になった日なのか、最後の既読の日なのか。
彼女はカレンダーを何度も見返したという。
終わった日がないと、記念日みたいなものも作れないでしょう。一年経った、とか言えない。ずっと途中なんですよ。
友人に話すと、そもそも付き合ってないんだから、と言われた。
あれが一番沁みました。正論なんです。反論できない。だから黙るしかなかった。関係がないなら苦しむ資格もないのかな、って本気で思いました。
名前がついていない関係ほど、執着が強くなる
やっていることは、ほぼ恋人だった
タクさん、31歳。相手とは毎日連絡を取っていた。
朝おはようって送って、夜は通話。会えば手もつなぐし、泊まることもあった。嫉妬もしてました。相手が男の同僚と飲みに行くって聞いた日、眠れなかったです。
やっていることは恋人と変わらない。ないのは合意だけだった。
一回だけ、どういう関係なのって聞いたんです。そしたら、今のままが楽しいよね、って返ってきた。それ以上聞けませんでした。
手に入りそうで入らない状態が、いちばん長く効く
彼の分析は具体的だった。
完全に脈なしなら諦められるんですよ。無理だってわかるので。恋人だったら安心できる。確定してるから。一番きついのは、その中間なんです。
なぜですか。
賭けが続いてるからです。あと一手で当たるかもしれない、って思わされ続ける。しかも相手は何も嘘をついてない。ただ確定させないだけ。
終わったと認めたのは、相手に恋人ができたと知った日だった。
共通の知り合いのSNSで見ました。その瞬間に、あ、俺は失恋したんだ、って初めてわかった。八ヶ月かかりました。
始まる前に終わった恋
告白する前に、相手に恋人ができた
ユリさん、26歳。彼女の場合は、まだ何も始まっていなかった。
大学のゼミが一緒で、三年目でした。来月あたり言おうと思ってたんです。そしたら飲み会で、彼が付き合い始めたって話をしてて。
その場では笑っていたという。
おめでとうって言いました。ちゃんと言えたと思います。帰りの電車で立ってられなくて、途中の駅で降りました。ホームのベンチで四十分くらい座ってた。
失恋と呼んでいいのか、わからない
彼女が長く迷ったのは、その呼び方だった。
振られてないんですよ。告白すらしてない。だから失恋って言葉を使っていいのか、自分でわからなくて。
その後の三ヶ月、生活は明らかに崩れた。
ご飯が食べられなくなって、四キロ痩せました。通知が鳴るたびに彼かもって思って、違ってがっかりする。それを一日に何十回もやってる。SNSの写真は、たぶん二百回以上見ました。
始まっていない恋ほど、終わり方がわからない、と彼女は言う。
好きだったって伝える相手もいない。別れる手続きもない。ただ会わなくなって、話さなくなって、それだけです。私の中の記憶だけが、あの頃のまま残ってる。
ふってないよ、と言われた側
こちらにとっては、振られたのと同じだった
ソウタさん、33歳。彼は相手に、ふってないよ、と言われている。
好きって言葉は何回も言われてたんです。私も好きだよ、って。でも、じゃあ付き合おうって話になると、急に曖昧になる。今はそういう感じじゃない、みたいな。
一年半、その状態が続いた。
誰かに取られるのが怖くて、こっちから確かめられなかった。確かめたら終わる気がして。
最後に彼は自分から言った。
僕にとってはフラれたようなものです、って伝えました。そしたら相手は、ふってないよ、って。それ以上は否定しなかったです。
罪の意識が、向こう側に発生しない
彼が指摘したのは、責任の偏りだった。
付き合ってないから、向こうには何も悪いことをした自覚がないんですよ。実際、何もしてない。約束を破ったわけでも、裏切ったわけでもない。
だから区切りをつける作業が、片方だけに残る。
謝られたら、まだ楽だったと思います。悪くない人に区切りをつけられるのって、けっこう難しいんです。怒る先がないので。
一日の中心を、勝手に奪われる
タケルさん、29歳。職場で親しくなった相手がいた。
朝起きて最初にやるのが、連絡の確認なんです。何も来てないと、その日一日ずっと引きずる。
会いたい理由を探すようになったという。
用事もないのに資料の相談を作ったり、たまたま近く通ったみたいな連絡をしたり。そこまで好きになるつもりなかったんですよ。仕事の相手だし。
彼が後になって言った言葉が、この取材で一番残っている。
恋って、一緒にいる時間じゃなくて、会えない時間にどれだけその人のことを考えたかで決まるんだと思います。俺、会ってた時間はたぶん全部で三十時間もない。でも考えてた時間は、たぶん千時間超えてます。
引っ越しで、自然に消えた関係
ミホさん、34歳。相手とは友達以上恋人未満の関係が二年続いていた。
最後の食事のとき、また会おうねって言ったんです。悪意なんて全然ない。彼が転勤になっただけ。
それきり会っていない。
連絡は最初の一ヶ月くらいは来てました。だんだん減って、今は年賀状もない。
胸が空く感じは、はっきりあったという。
友達に話すと、未練だね、で終わるんです。未練って言葉しかないんですよ。関係に名前がなかったので。恋人だったら失恋って言える。友達だったら疎遠でいい。うちのは、どっちの言葉も使えなかった。
名前がない恋には、慰めの言葉も用意されていない。
同情されないんです。だから一人でやるしかない。それが一番孤独でした。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
これは失恋と呼んでいいのか
六人全員が、最初はその判定に迷っている。全員が最終的に、失恋だったと認めた。認めるまでの期間は、最短で三週間、最長で八ヶ月。認めた時点から回復が始まったと答えたのが五人だった。
なぜ諦めがつかないのか
否定されていないからだ、と複数の人が言った。振られた人には、はっきりした拒絶の記憶がある。この状態にはそれがない。だから、返信の速さ、既読の間隔、他の異性の気配。そういう小さな合図を読み続ける作業が止まらない。ソウタさんは一年半それをやったという。
周囲に相談していいのか
したのが四人、しなかったのが二人。した四人のうち三人が、後悔したと答えている。返ってくる言葉が、そもそも付き合ってないんでしょ、で揃うからだ。話す相手を、同じ経験がある人に限定した方がいい、と言った人が二人いた。
生活や数字はどう変わったか
ユリさんは四キロ痩せ、タクさんは八ヶ月ぶんの休日をほぼ覚えていない。タケルさんは職場での立ち位置が変わり、その相手と同じ会議に出るのを避けるため、部署異動の希望を出したという。
どうやって終わらせたのか
相手からの区切りを待たず、自分で終わりを宣言した人が三人いた。カナさんは、二月の水曜を終わった日にすると決めている。決めたからといって楽になるわけではないが、少なくとも数えられるようになった、と言う。
名前をつけた日
カナさんは今、その相手の連絡先を消していない。
消したら、本当になかったことになるので。
彼女は二月の水曜を、終わりの日にすると決めた。その日を選んだ理由を聞いた。
最後にちゃんと会った日だから。あの日はまだ何かあったんですよ。改札でキスしたし、来月の話もしてたし。あそこで終わったことにしないと、私の中で何も終わらない。
相手はその日付を知らない。知る方法もない。
向こうは何も終わらせてないと思います。始まってもいないと思ってるかもしれない。それでもいいです。私の側だけで終わらせました。
外でコインランドリーの乾燥機がブザーを鳴らして、誰かがドアを開けて入っていった。彼女は砂糖を二回入れたコーヒーを、結局半分残した。甘すぎたんだと思う。彼女は何も言わなかった。