条件は悪くない。生活も回る。周りからは羨ましがられることさえある。それなのに、夜だけが解決しないまま何年も残る。生活の話をしているときは全員よく喋った。夜の話に入ると、全員が一度は黙った。
平日の午後、郊外の大型書店に併設されたカフェ。BGMが小さく流れていて、レジのバーコードの音が一定の間隔で聞こえる。美保さんは席に着いて十分ほど、子どもの習い事の話をしていた。私が本題に入ると、コーヒーを一口飲んで、少し姿勢を変えた。
初夜から、体が反応しなかった
二十七歳が女の最高値、と父に言われた
美保さん、仮名。二十代後半で結婚した。相手は医師だった。
父が言ってたんです。二十七歳が女の最高値だって。何回も言われました。それに押される形で、恋愛感情のない人と結婚しました。
条件はよかったのか、と聞いた。
よかったです。誰に話しても、いいじゃない、って言われる相手でした。だから断る理由を、自分でも説明できなかった。
友達の話と、自分のベッドが繋がらない
初夜のことを、彼女は淡々と話した。
体が反応しなかったんです。まったく。頭で何を考えても、何も起きない。
友達が楽しそうに話す行為と、自分がいるベッドが、どうしても繋がらなかったという。
みんなが話してるのと同じことをしてるはずなんですよ。同じ言葉で説明できるはずのことを。でも別のものでした。
毎晩、断れなかった
交際中に我慢していた相手は、結婚後に毎晩求めたという。
妻の勤めだと思ってました。だから断らなかった。断っていいって発想がなかったんです。
回数を重ねれば慣れると言われ、道具も出てきた。
全部が不快でした。全部です。
終わったあとの言葉が、いちばん残っているという。
俺が相手でよかったね、って言われました。あと、今日もダメだったね、って。やんわり責められる感じで。あれを繰り返されると、自分に女としての価値がないんだと思うようになります。
地獄、という言葉を彼女は取材中に四回使った。
技術の問題じゃないんですよ。心が先に閉じてて、体があとからついてきただけです。順番はそっちなんです。
妊娠がわかった夜に、告げられた
独占欲の延長で結婚した、と言われた
江里さん、仮名。三十三歳で結婚した。
相手の信念みたいなものに憧れてたんです。生き方が真っすぐで。
妊娠がわかった夜、夫から言われた言葉を、彼女は正確に覚えている。
独占欲の延長で結婚してしまった、って。そこまで純粋に好きでもないのに、子どもを持つのは間違ってた気がする、とも言われました。
その夜のことを、どう受け止めたのか。
嬉しい報告をした直後ですよ。何を言われてるのか、しばらく理解できなかったです。
七年間、何もなかった
それから七年、キスも行為もなかったという。
誘ったことはあります。何回か。返ってきたのが、女性として好きじゃないからその気になれない、でした。
疲れているから、なら次があるんです、と彼女は言った。
好きじゃないから、って名指しされると、次に言う言葉がないんですよ。反論できない。努力する方向もない。
離婚の理由は、そのままだった。
好きじゃない結婚って、妊娠で表に出ることがあるんだと思います。子どもができたあとに残ったのは、親としての同居だけでした。
子作り以外はしない、と決めた家
三十八歳の女性の話も聞いた。結婚相談所で、すぐに子どもがほしい人同士として出会っている。
二人授かりました。子作り以外では、一度もしてないです。
そう言って、彼女は笑った。
目標は普通の家庭を作ることだったので。愛情はないです。幸せな主婦の顔はしてます。
仮面は昼間だけ機能する、とも言った。
昼は普通に回るんですよ。買い物も、送り迎えも、義実家との付き合いも。夜の空白だけ、誰にも見せない。
別の女性は、もっと直接的だった。顔がタイプではなさすぎて毎日が苦痛だ、と言い、大好きな人と結婚したかった、来世に期待する、と話した。
子どもが世界一大切になると、夫を好きかどうかはどうでもよくなる、という声も複数あった。救いでもあると思う。同時に、夫という一人の人間を消す作業でもある。
体だけが先に合っていた
顔も性格も好きではなかった
三十代前半の女性から聞いた話だ。元彼と別れたあと、寂しくて作った相手だったという。
顔も性格も好きじゃなかったです。それだけははっきりしてました。
避妊していたのに妊娠した。相手は喜び、結婚しようと言った。
仕組まれたんじゃないか、って後からぞっとしました。確かめようがないですけど。
好きの不在が、後回しになる
体の相性が結婚の理由になると、好きかどうかは後ろへ回される。ただし消えるわけではない。
生活が始まると、朝に顔を見るんですよ。毎日。夜だけの関係じゃなくなった瞬間に、後回しにしてたものが全部出てきました。
男性側の夜
六十代の男性にも話を聞いた。彼の説明は率直だった。
妻は行為が好きじゃないんです。だから子作り以外は外でしてきました。
隠していたのか、と聞いた。
隠してました。言えないですよ。
結婚したから性生活が幸せとは限らない、と彼は言った。
貞操の約束と、身体の欲求を、同じ部屋に置けないときがあるんです。隠れるか、黙って自分で処理するか、交渉するか。うちは交渉ができなかった。
この点については、意見が真っ二つに割れる。レスを理由に外に出るのは性欲処理の自白だ、という声がある。一方で、片方が長期にわたって拒否し続けるなら約束のほうが崩れている、という声もある。どちらの言い分も、好きではない人と寝続ける苦痛の裏返しだと私は思った。
義務になった瞬間に、変わるもの
三十六歳の女性の話が、この取材で一番わかりやすかった。
夫婦なんだから当然でしょ、って言われました。断ると不機嫌になるので、応じてました。
義務になった瞬間に、何が変わるのか。
同じ動作なんですよ。やってることは何も変わらない。でも中身が別物になります。愛情表現じゃなくてノルマになる。
回数は習慣になったという。
習慣にはなります。慣れもします。ただ、そのたびに自分の何かが減っていく感じがありました。
足りないのではなく、種類が違う
二十九歳の女性は、別の角度から話した。満足できない理由が相手ではなく自分にある、という自己分析だった。
結婚前の記憶が強すぎるんです。背徳的な関係だったので。婚姻の中の穏やかな行為だと、そこに届かない。
相手が悪いわけではない、と彼女は繰り返した。
足りないんじゃなくて、種類が違うんですよ。量を増やしても届かない。それに気づいたときは、けっこう絶望しました。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
慣れるのか
慣れた人と、慣れなかった人がいた。三十六歳の女性は習慣になったと話し、美保さんは最後まで不快なままだった。回数を重ねれば慣れるという助言は、二人のうち一人にしか当たっていない。
数字としてはどうなのか
好きではない相手と結婚した人は少数派だが、その後の状態を聞いた調査では、幸せそうではないと答える層が六割前後という数字が出ている。一方で、子どもと経済的な安定と、干渉されないことで穏やかに暮らしていると話す人もいる。夜のことがその幸福の定義に入るかどうかは、人によって分かれた。
子どもができたら解決するのか
しない、というのが七人の答えだった。江里さんの家では妊娠が引き金になっている。三十八歳の女性の家では、目的が終わったあとの夜に何を残すかが、そのまま宙に浮いた。
話し合いはできるのか
できた家とできなかった家に分かれた。分かれ目は、好きかどうかを議題にしなかったかどうかだった。触れ方の合意だけを、好きとは別の言葉で決めた家は続いている。好きかどうかを話し合いに乗せた家は、江里さんの例のように行き止まりになりやすい。
離婚したのか
七人のうち、離婚したのが二人。続けているのが五人。続けている五人のうち、夜のことが解決したと答えた人はいなかった。
レジの音
美保さんは今も結婚生活を続けている。子どもがいる。
聞いてもいいですか、と私は確認した。彼女はうなずいた。
今は、どうなっていますか。
だいぶ減りました。月に一回あるかないかです。数字だけ見ると楽になったように見えると思います。
見えるだけですか。
減ったのは回数で、意味は変わってないので。あと、断れるようになったわけでもないです。向こうが求めなくなっただけで。
彼女はコーヒーの残りを見て、飲まずに置いた。
これ、誰にも言ったことがないんですけど。夫が悪い人じゃないのが、一番きついんです。悪い人だったら怒れるので。
レジのバーコードの音が、また一定の間隔で鳴っていた。彼女は時計を見て、迎えの時間まであと二十分ある、と言った。それから、じゃあもう少しだけ、と言って、まだ座っていた。