三月の頭に、兄からLINEが来た。四月から小学校だよ、という短い報告と、ランドセルを背負った甥の写真。
祝いの言葉を返しながら、僕はもう別の画面を開いていた。甥の入学祝いの相場。指が勝手に動いていた。おめでとうと打った十秒後に金額を検索している自分が、われながら少し嫌だった。
出てきた数字は、だいたいどこも似ていた。小学校なら五千円から一万円。中学校で一万円前後。高校と大学になると、一万円から三万円あたり。受験を経ての進学や、一人暮らしを始めるなら上のほうへ寄せる人が多い。
数字はすぐ分かった。それでも僕は、その晩、決められなかった。困っていたのは金額ではなく、別のところだったからだ。
最初の一回で、十二年分の基準が決まる
いま思えば、あの夜いちばん考えるべきだったのは、今年いくら渡すかではなかった。
甥は小学校に入る。六年後に中学。三年後に高校。その先に大学がある。つまり、これから最低でも四回、同じ場面が来る。しかも僕には、甥と姪が合わせて四人いる。単純に掛けると十六回だ。
一回目の金額は、金額ではなく宣言になる
一回目に一万円を出せば、次は一万円以上が当たり前になる。中学で下げるわけにいかない。高校でさらに上げるのが自然な流れだ。つまり最初の一枚は、そのあと十年以上を縛る基準値の設定になっている。
見栄を張って五万円を包んだ人が、兄夫婦に本気で驚かれて気まずくなった、という話を聞いたことがある。翌年から一万円に下げたそうだ。ただ、一度出した数字を下げるのは、想像よりずっと難しい。相手も覚えている。
だから最初は、相場のなかでも下寄りか、真ん中に置くのが安全だと思う。上げるのは簡単で、下げるのは無理に近い。
甥に渡しているようで、渡している相手は兄だった
もうひとつ、僕が最初に取り違えていたことがある。
六歳の甥は、一万円と三万円の違いを理解していない。封筒の中身より、ランドセルの色のほうが百倍重要な年齢だ。実際、僕が渡した現金は、その日のうちに兄夫婦の管理下に入った。
金額を読んでいるのは、大人のほうだ
つまり、あの封筒は甥宛ての形をしていて、実際には兄に届いている。そして兄は、金額を見て、そこから何かを読み取る。
弟がこれだけ出してくれた、という素直な受け取り方をする人もいる。うちの家計を心配されているのか、と受け取る人もいる。あるいは、こんなに出されると返しにくい、と身構える人もいる。金額は数字でありながら、兄弟間のメッセージとして機能してしまう。
甥のための金額を考えているつもりで、僕は兄との距離を測っていた。相場を調べても迷いが消えなかったのは、そのせいだった。
多く出すと、相手に宿題を出すことになる
高校入学のときに二万円を包んだら、兄から、あげすぎじゃないか、と言われた。あれを謙遜だと受け取っていたが、たぶん半分は本音だ。
気前のよさが、そのまま負担に変換される
祝いをもらった側は、内祝いを返すかどうかを考える。相場を超えた額をもらうと、返す側の計算が一気に面倒になる。同額に近いものを返すべきか、控えめでいいのか。子どもの入学準備で出費がかさんでいる時期に、その計算をさせることになる。
こちらの好意が、相手の家では宿題に化ける。これが、多く出すことの本当の代償だと思う。返礼はいらないよ、と口で言っても、たいてい効かない。
だから相場という言葉は、けちくさい平均値の話ではない。相手に余計な作業をさせない範囲を示した目安だと考えると、腑に落ちる。
兄弟で子どもの数が違うと、算数が壊れる
これは、きょうだいが多い家だと必ずぶつかる問題だと思う。
兄には子どもが三人いる。姉には一人。僕が一人あたり一万円で揃えると、兄の家には累計で三倍を出すことになる。子ども単位では完全に公平で、家単位では明確に不公平だ。
揃えるべきは、子どもか家か
正解はないと思う。ただ、決めておかないと毎年もやもやする。
僕は子ども単位で揃えることにした。理由は単純で、家単位で調整しようとすると、兄の家の子は一人あたり少ない、という状態が生まれるからだ。子ども本人が気づく年齢になったとき、そのほうが気まずい。
そして、これを一度、兄と姉に伝えた。うちは一人あたりでいくよ、と。三十秒の会話だった。それだけで、その後の十年分が楽になった。
事前に一言すり合わせるのが、いちばん効く
祝い事の金額でもめる家の話を聞くと、たいてい原因は金額そのものではなく、相談していなかったことにある。
兄弟のあいだで、小学校はこのくらいにしよう、と最初に決めておく。それだけで、誰かが突出して気まずくなる事故が消える。距離が遠い間柄なら、お互いに贈るのはやめておこう、と取り決める家もある。これも立派な選択肢だ。祝いは、贈ることそのものより、両家が無理をしないことのほうが大事になる。
独身で子どもがいないと、この制度からは回収できない
ここからは、相場の記事にはまず書かれていない話をする。
入学祝いというのは、よくできた相互の積み立てだ。自分が甥姪に出した分は、いずれ自分の子どもが受け取る形で、ゆるやかに戻ってくる。長い目で見れば、だいたい釣り合う。
僕は三十九歳で、独身で、子どもがいない。この制度において、僕は支払い側に固定されている。回収の予定はない。
計算していることを、認めるのに時間がかかった
正直に書くと、四人分の入学祝いを十六回積み上げた総額を、電卓で出したことがある。まとまった額になった。出した瞬間に、自分の器の小ささが嫌になって、すぐ画面を消した。
甥や姪はかわいい。それは本当だ。同時に、僕は毎年三月に電卓を叩いている。この二つが両立してしまうことに、しばらく折り合いがつかなかった。
いまは、こう考えている。回収できないのは事実だし、それでも出すのは、これが取引ではないからだ。理屈としては当たり前の話を、腹に落とすのに何年かかかった。
実際に渡すときのこと
細かい部分も書いておく。
現金が無難だ。入学の時期は、子どもの家の出費が集中する。使い道を相手に任せられる現金は、いちばん外れがない。抵抗があるなら、図書カードや商品券でもいい。
のし袋の表書きは、入学御祝でいい。渡す時期は、入学式の前。合格や進学が決まってから、式の二、三週間前までに手元に届くようにすると、必要なものを買う時期に間に合う。式が終わってから渡すのは、間に合わなかった感じが出る。
品物を選ぶ人もいる。名前を入れた文具や、部活で使う道具など。長く使えるものを渡して、数年後にまだ使っていると聞くと、現金にはない嬉しさがあるらしい。ただ、好みを外す危険は現金より高い。
メモには、六行たまっている
僕のスマホのメモに、記録が残っている。誰の、いつの、いくら。もう六行ある。
最初は実務のために作った。前回いくら渡したか思い出せなくて、姉に聞くのも恥ずかしかったからだ。ところが行が増えるにつれて、それは別の顔を持ち始めた。並んだ数字を眺めていると、自分が家族に何を払ってきたかの一覧に見えてくる。
消そうと思ったことが、何度かある。まだ消していない。次に迷わないためだ、と自分には説明している。それが本当の理由なのかどうかは、あまり深く考えないようにしている。
去年、大学に入った上の甥から、電話が来た。教科書代に使いますと言われた。三十秒くらいの、内容のない電話だった。切ったあと、僕はメモを開いて、その日付と金額を打ち込んだ。嬉しかったのも、記録したのも、どちらも本当のことだった。