食事の席でその金額を口にした瞬間、空気が変わる。夢見すぎだよ、と苦笑いされる。贅沢したいわけではないのに、なぜ笑われるのかがわからない。逆の立場もある。自分は510万なのに、プロフィールを開かれた瞬間に既読で終わる。同じ数字が、片方では高望みになり、もう片方では足りないことになる。七人に会って、手取りと家賃と保育料を教えてもらった。数字を並べたら、揉めているのは金額そのものではなかった。
土曜の昼過ぎ、駅前のチェーンのカフェ。子ども連れが多い時間帯で、隣の席のベビーカーが何度か動く。彩花さんは席に着いてすぐ、家計簿のアプリを開いて画面をこちらへ向けた。全部見せますよ、と言った。恥ずかしがる様子はまったくなかった。
500万と言った瞬間の、あの苦笑い
贅沢のつもりはなかった
佐藤彩花さん、当時二十八歳。友人との食事でその条件を口にした。
できれば500万ある人がいいな、って言っただけなんです。そしたら三人ともちょっと笑って、それは夢見すぎじゃない、って。
悔しかったと彼女は言う。
贅沢したいわけじゃないんですよ。都内で家賃を払って、子どもを一人育てる。それを想像しただけです。ブランドバッグの話なんて一回もしてない。
そのあと友人に言われた説明が、彼女には効いた。
普通に見える条件が、三十代前半の独身男性だと上位に近いんだよ、って。数字の位置を知らなかったのは私のほうでした。
400万に下げたら、人が現れた
実際に婚活を始めて、彼女はその意味を体感する。
条件を500万以上にした時点で、会える人数が急に減るんです。表示される数が目に見えて減る。
400万まで下げたらどうなったか。
人柄のいい相手が一気に増えました。それまでどこにいたんだろう、っていうくらい。
今の夫は当時430万だったという。彼女自身も働き、世帯では800万近い。
暮らしてみて思うのは、500万の人と400万の人で、月の生活はそこまで違わないってことです。違ったのは、会える人数のほうでした。
510万で、既読だけの日が続いた
手取りは月に32万ほど
中村健太さん、仮名。当時三十二歳、年収は510万だった。
自分では平均より少し上だと思ってたんです。手取りが月32万くらい。一人暮らしなら普通に余裕があります。
婚活を始めて、彼はその認識を崩された。
プロフィールの年収欄で止まるんですよ。メッセージを送っても、既読だけついて返ってこない日が何日も続く。
清潔感も会話も、極端に悪いつもりはなかったという。
なのに500万じゃ足りないって言われる。都内の相手ほど、700万とか800万の話が出るんです。
五人に一人と、八割
彼が挙げた感覚が具体的だった。
500万を超えてる人って、社会人全体だと五人に一人くらいですよね。なのに、希望する側は八割くらいいる感じがした。数が合ってないんですよ。
結局、彼は年収に触れずに趣味の場で知り合った相手と結婚している。
妻が言ったのは、数字じゃなくて、毎月の口座の動きを一緒に見られるかどうかだ、って。それ聞いて、なんかすごく楽になりました。
稼いでいるほうが、選べなくなる
自分が500万稼いでいたら
山田莉子さん、仮名。当時三十五歳。自分の年収が300万に届かない時期が長かったという。
400万の男性と付き合ったとき、普通に尊敬できたし、好きになれたんです。
彼女はそこに条件をつけた。
もし自分が500万稼いでたら、それ以上の人しか見えなくなってたと思います。たぶん無理でした。
友人の例も話してくれた。
年収550万の女友達がいるんですけど、相手にも同水準以上を求めて、三年決まらなかったです。人柄がどうこうじゃなくて、最初のフィルターで消えていく。
我慢の話ではない
低スペックのほうが好きになれる幅が広い、というのは皮肉ですけど実感です、と彼女は言った。
ただ、その言い方だと誤解されそうだとも付け足した。
生活を落として我慢した話じゃないんですよ。二人とも働いて、週末の外食を月二回に抑える。それだけです。具体的に決めたのはそのくらい。
同じ数字が、土地で意味を変える
地元では、かなり稼いでいる部類だった
前田直樹さん、仮名。当時三十歳、九州から上京していた。
地元では500万って、同年代でかなり稼いでる部類なんです。一握りですよ。
東京の合コンで同じ数字を出したときの反応は違った。
普通だね、で流れました。それだけ。話題にもならない。
彼が気づいたのは、比較の前提だった。
地方だと家賃が四万とかなんです。東京だと同じ間取りで十二万。物価も違う。それを知らないまま、同じ数字で比べてた。
480万のまま、地元で結婚した
二年後、彼は地元に戻っている。年収は480万。
住居費が半分以下になりました。子どもが一人いても黒字が残ります。
彼の総括が、この取材で一番すっきりしていた。
夢見すぎって言われたのは、東京の相場の話だったんです。俺の生活の話じゃなかった。同じ数字なのに、話してた内容が全然違ってた。
片働きで全部を抱える絵が、無理だった
手取り32万から、引いていく
松本恵さん、仮名。当時二十九歳。彼女は最初に描いた想像を教えてくれた。
夫が500万、子ども二人、都内、いつかマイホーム。それが理想でした。
実際に計算したのは、結婚が具体化してからだ。
手取りが32万で、家賃が13万。残り19万です。そこに保育料と保険料が乗って、食費と光熱費を引いたら、余裕が消えました。
計算した日のことを覚えているという。
紙に書いて、二人で見て、しばらく黙りました。あ、無理だ、って。
夢だったのは、金額ではなかった
彼女の言い方が正確だった。
500万で夢を見てたのは、独身時代の可処分所得を、そのまま家族四人に当てはめてたからなんです。一人で32万なら余裕ですよ。四人で32万は別の話でした。
今は彼女も働き、世帯で750万前後。
たまに贅沢できるラインには乗ってます。夫の500万が夢だったんじゃなくて、一馬力で都市と子どもを全部抱える絵のほうが夢だった。そこを間違えてました。
職種を絞った時点で、母数が消えていた
小林あゆみさん、仮名。当時二十六歳。条件は残業なしで500万だった。
高望みしてるつもりは全然なかったんです。500万って平均くらいでしょう、って思ってて。
問題は、そこに付いていた条件のほうだった。
残業なしで、事務系で、在宅も少しあって、っていうのを足していくと、その水準に届く人ってごく一部なんですよね。成果主義の会社か、資格を持ってる人か。職種を限った時点で、母数が消えてました。
彼女は条件を組み替えた。
安定して働いていること、に変えました。金額を外したんです。
決めた相手は年収420万だった。
賞与の月に旅行に行って、それ以外は弁当です。それで十分だと今は思ってます。
独身の500万と、既婚の1000万
取材の中で、この比べ方を口にした人が二人いた。健太さんの説明が具体的だった。
都心で子どもがいて、住居費と教育費が乗ると、1000万でも贅沢はできないです。友人がまさにそうで、常にカツカツだって言ってます。
一方で、と彼は続けた。
500万の独身は、車も趣味も自分の裁量で残るんですよ。だから自己愛が強い人は結婚しない、ってまで言う人もいます。言い方はきついですけど、わかる部分はある。
結婚を選んだ側の説明も聞いた。恵さんはこう言った。
減った可処分所得と交換したのは、一人では買えない安心です。金額に換算できないので、比較のしようがないですけど。
検索してここまで来た人が、確かめたいこと
500万は実際どのくらいの位置なのか
日本の給与の平均に近い帯だ。ただし年代で位置が変わる。二十代でその水準は残業込みでも限られる。四十代なら現実的な範囲に入ってくる。健太さんの、五人に一人という感覚は、実感としてそう遠くない。
なぜ高望みと言われるのか
年齢と地域を外して数字だけを言うからだ、という指摘が複数あった。三十代前半の独身男性という母数に限ると、上位に近づく。直樹さんの九州と東京の差も同じ話で、同じ数字が別の意味になっている。
条件を下げると何が変わるのか
彩花さんは400万に下げて、会える人数が増えた。暮らしのほうは想像したほど変わらなかったと言っている。あゆみさんは金額を外して、働き方の安定に条件を変えた。二人とも、下げたのは金額で、諦めたのは金額ではなかった。
共働きなら解決するのか
恵さんの世帯は750万前後で、たまに贅沢できるラインに乗った。彩花さんは800万近い。どちらも二人で働いている。一馬力の500万と、二馬力の800万は、同じ土俵で比べられていない。
数字より先に見るものはあるか
七人のうち五人が、家計の表を二人で開いたかどうかを挙げた。健太さんの妻の言葉が一番わかりやすい。毎月の口座の動きを一緒に見られるかどうか。恵さんは紙に書いて計算し、そこで理想を組み替えている。
家計簿の画面
彩花さんは、最初に見せてくれたアプリの画面をもう一度こちらへ向けた。先月の支出が科目ごとに並んでいる。
これ、結婚してからずっとつけてます。夫も見てます。
金額を見せることに抵抗はないんですか、と聞いた。
ないです。というか、これを見せられない相手とは無理だと思ってます。
彼女はそこで、少しだけ声のトーンを落とした。
あの日に笑われたのは、たぶん正しかったんですよ。私、金額しか言ってなかったので。どこに住んで、何人育てて、自分がいくら稼ぐのかを、何も考えてなかった。500万っていう数字だけ持ってた。
隣のベビーカーが動いて、子どもが何か言った。彼女はそちらを見て、少し笑ってから画面を閉じた。
今なら、あの友達にちゃんと説明できます。でも、もう誰もその話をしてくれないんですよね。みんな結婚したので。