返信が三時間来ないだけで、一日が使い物にならなくなる。相手の位置を確認したくなる。それを好きだからだと思っている間は、たぶん何も変わらない。
執着から抜けた人の話を聞くと、決意した瞬間に抜けた人は一人もいなかった。全員、順番が逆だった。生活のほうを先に動かして、後から気持ちがついてきている。
安心したいだけだったと気づいた日
四谷の、地下にある喫茶店。ジャズが小さく流れていて、話し声がちょうど隠れる。ちひろさん、三十歳。彼女は湯呑みを両手で持ったまま話した。
四年付き合ってた人がいて。連絡が途絶えると、一日中それしか考えられなくなるんです。仕事中もスマホを裏返して置いて、五分おきに表に返す。
既読がつかないと、事故に遭ったのかもと思う。既読がついて返事が来ないと、他の誰かといるのかもと思う。どっちでも地獄なんですよ。
それを、好きだから当然だと思ってました。愛が重いだけだ、と。
相手のことを考えている時間が、一秒もなかった
変わったのは、ある日ふと気づいたことでした。
私、この人の心配をしてるつもりだったんですけど、よく考えたら、この人が今どう過ごしてるかには興味がないんですよ。私が安心できるかどうかだけを気にしてた。
わかりますかね。返信が欲しいのは、あの人の言葉が読みたいからじゃなくて、私が安心したいからなんです。あの人は、私の不安を消す装置として扱われてた。
気づいたときは、けっこうきつかったです。私、この人のこと好きじゃないのかも、と思って。四年一緒にいて。
スマホを別の部屋に置くところから始めた
やったことは地味です。家に帰ったら、スマホを寝室に置いて、リビングにいる。それだけ。
最初の二週間は、しんどかったです。取りに行きたくてそわそわして、結局三十分おきに見に行ってました。それでも、常に手元にあるよりはマシで。
あと、前からやりたかった陶芸の教室に申し込みました。土日のどっちかが埋まると、それだけで待つ時間が減るんです。
三ヶ月くらいで、変化が出た。
いないと困る、から、一緒にいると嬉しい、に変わったんです。前者は、いないと自分が壊れるという話で、私の話なんですよ。後者は、あの人がいることについての話で、初めてあの人の話になってる。
同じ人を好きなんですけど、中身が入れ替わりました。
追いかけていたのは、相手ではなく自分の役割だった
ちひろさんの話で引っかかったのは、装置として扱われていた、という言い方だった。
執着している間、頭の中は相手のことでいっぱいに見える。ただ、内容をよく見ると、相手そのものは出てこない。返信が来るか、他に誰かいるか、自分がどう思われているか。全部、自分の状態についての計算だ。
相手は変数として扱われている。私の安心を左右する要素として計算に入っているだけで、その人が今日何を食べたかにも、仕事で何があったかにも、実は関心がない。
だから執着は疲れる。二十四時間、自分の不安を監視する仕事をしていることになるからだ。相手を見ているようで、一日中、自分だけを見ている。
もう十分頑張った、と区切りをつけた
さおりさん、二十八歳。彼女は別れた後の執着だった。
別れてからのほうがひどかったです。SNSを一日に何十回も見て、共通の友達に近況をそれとなく聞いて。三十回とかじゃないですよ、たぶん七十回とか見てました。
自分でもおかしいとわかってました。でも、見ないという選択肢が存在しないんです。手が勝手に動くので。
区切りがついたのは、ある夜だという。
特別なことは何もなかったです。ただ、また見てる自分に気づいたときに、心の中で、もう十分頑張った、と言葉が出てきて。
誰に対する頑張ったなのか自分でもわからないんですけど、あれが合図でした。
消さずに、見えない場所に移した
写真もメッセージも、消さなかったんです。消せなかった。
代わりに、フォルダを一個作って、全部そこに入れて、そのフォルダをずっと下の階層に押し込みました。あと、SNSはアプリを消して、ブラウザからしか見られないようにした。
見ようと思えば見られるんですよ。ただ、手順が四つくらい増える。その四手間が入るだけで、回数が激減しました。
意志で我慢するのは無理でした。手が届く場所にあると絶対に見るので。手が届きにくくするほうが早かったです。
新しく始めた習い事の話を聞くと、彼女は少し笑った。
パン教室です。月二回。理由はないです、たまたま近所にあったので。ただ、生地をこねてる時間って、スマホが触れないんですよ。手が粉だらけなので。あれがよかったんだと思います。
執着が抜けた頃に、相手から連絡が来たという。
やり直しました。前とは全然違います。前は、嫌われないことが目的の関係だったので。
しつこいのは、相手のせいではなかった
みずきさん、三十四歳。彼女の話は、根っこの部分だった。
子どもの頃、親が忙しくて、あんまり構われなかったんです。ネグレクトとかじゃないです。ちゃんと育ててもらった。ただ、見てもらえた記憶が薄い。
恋愛になると、それが全部出るんですよ。相手の返信の速度が落ちただけで、捨てられると思う。予定が合わないだけで、優先されてないと思う。
束縛みたいなこともしました。今どこ、誰といる、写真送って。送ってきた写真の背景を拡大して確認したこともあります。自分でも異常だとわかってて、やめられない。
求めていた相手は、目の前にいなかった
カウンセリングに通うようになって、そこで言われたことが刺さりました。
あなたが満たしてほしいのは、今の恋人じゃなくて、昔のあなたなんじゃないか、って。
その通りだったんですよ。私が欲しかったのは、四六時中こちらを見ていてくれる存在で、それって恋人に求めるものじゃない。子どもが親に求めるものです。
彼は、私の子ども時代の穴を埋める係にされてた。かわいそうでしたね。無理なので、あれは。誰にもできない。
求めることを、自分の行動に書き換えた
具体的にやったのは、書き換えの作業だという。
紙に、彼にしてほしいことを全部書いたんです。もっと連絡してほしい、優先してほしい、不安なときに気づいてほしい。二十個くらい出ました。
それを一個ずつ、自分でできることに書き換えていく。もっと連絡してほしい、は、連絡を待つ時間を自分の好きなことに使う。優先してほしい、は、自分の予定を先に埋める。
全部が書き換えられたわけじゃないです。無理なものもある。ただ、二十個のうち十二個くらいは、自分でどうにかできることでした。
彼女はここで少し声を落とした。
やってて、惨めでしたよ。自分でやるしかないのか、と思って。でも、やってるうちに、彼に求める量が減っていったんです。求めなくなったら、彼が普通にいい人に見えてきた。ずっと減点してたんだな、と。
結婚してからのほうが、握る力が強くなった
ようこさん、三十九歳。彼女の場合は、夫が相手だった。
結婚してから、逆にひどくなりました。手に入れたら安心すると思ってたのに、逆でした。失うものが増えたので。
パスワードを共有してもらってました。私から頼んで。それで安心できると思ったんですけど、共有したらしたで、見るじゃないですか。見ると、何もなくても不安になる。見なかった日は、見てないことが不安になる。
あれ、底がないんですよ。安心の材料をいくら足しても、埋まらない。
境界線がないことに気づいた
きっかけは、夫の何気ない一言だったという。詳しくは話してくれなかった。
そのとき、はっきりわかったんです。これは愛じゃなくて、この人と私の間に線が引けてないだけだ、と。
夫が一人でどこかに行くのが不安なのは、夫を信じてないからじゃなくて、私が一人でいられないからでした。私の問題を、夫の行動で解決しようとしてた。
意識的に一人の時間を作りました。夫が休みの日に、こっちが一人で出かける。連絡もしない。最初は落ち着かなかったです。何度も、今どこ、と打っては消しました。
しばらくして、友人関係も立て直したという。結婚してから疎遠になっていた人に、一人ずつ連絡を取り直した。
自分の足で立ってる感覚が戻ってくると、夫への気持ちが変わりました。握りしめたい、から、そばにいてほしい、に。
握りしめるって、力を入れてる状態なんですよ。ずっと力を入れてたら、疲れるに決まってる。
片思いのまま、追う力を下ろした
なつみさん、二十六歳。返事の少ない相手に片思いしていた時期の話だ。
返信が三日来ないとか、普通にありました。そのたびに、嫌われたのかな、何か悪いこと言ったかな、って過去のメッセージを読み返して。
ある日、これを続けたら自分がなくなるな、と思ったんです。好きなのをやめようとは思わなかった。好きなのは事実なので。ただ、追いかけるのはやめようと。
好きなまま、追わない状態がある
やったのは、単純に自分の予定を埋めることでした。仕事の資格の勉強を始めて、あと、前から誘われてたフットサルに行くようになって。
好きな気持ちは減らなかったです。減らなかったけど、追いかけるエネルギーがなくなった。使い先が他にできたので。
そしたら、欲しい、から、大切にしたい、に変わったんですよ。
彼女はここを丁寧に説明した。
欲しいって、自分の側の話じゃないですか。手に入るかどうかの。大切にしたいは、相手の側の話です。あの人が元気だといいな、みたいな。
同じ人に対する気持ちなのに、向きが逆になった感じでした。
その後、関係は進展したという。ただ、進展したから変わったんじゃなくて、変わったから進展したんだと思います、と彼女は言った。
消えるわけではない
五人に共通していたのは、執着が消えたとは誰も言わなかったことだ。
ちひろさんは、今も返信が遅いと胸のあたりがざわつくという。ただ、ざわついたまま別のことができるようになった。ようこさんは、たまにパスワードのことを思い出すが、手が伸びなくなった。
飲み込まれなくなるだけで、なくなりはしないです、とみずきさんが言っていた。あれは体質みたいなものなので、と。
もう一つ、全員が言っていたことがある。決意では動かなかった、ということだ。手放そうと思って手放せた人はいない。スマホを別の部屋に置く、フォルダを深い場所に移す、手が粉だらけになる作業をする。全部、意志ではなく環境を変える話だった。
さおりさんの言い方が身も蓋もなかった。気持ちは命令を聞かないんですよ、と。でも、手は届かないところにあるものは触れないので、と。