近づいてはこない。話しかけてもこない。それなのに、離れた場所から確かに見ている。離れたところから見てくる女性の心理、視線に気づいてから会話が発生するまで、かなりの時間が空いたと言った。しかも、その空白を埋めたのは毎回、相手側だった。
聞き取りをしていて、途中から気づいたことがある。この話をする男性は、相手の顔を思い出せないことがある。距離があったからだ。
距離が保たれたまま、視線だけが届く
何度も続くと、意識せざるを得ない
三十四歳のトオルさんは、カフェでの経験を話してくれた。
「窓際で本を読んでたら、ふと視線を感じて」
どこからですか。
「少し離れたカウンター席です。距離にして五、六メートルくらい」
目が合ったら。
「すぐ外されます。でも、しばらくするとまた感じる」
何度くらい。
「一時間くらいの間に、五回か六回ですかね」
そのときは。
「最初は気のせいかと思いました。ただ、何度も続くので、意識せざるを得なくなって」
声はかけましたか。
「かけてないです。向こうも来なかったですし」
意味がわかったのは。
「後で知り合いに聞きました。あの子、前から気になってたみたいって」
知り合い経由で。
「そうです。本人からじゃないです」
近くには来ない、という一貫性
八人全員が、同じ特徴を挙げた。視線は続くのに、物理的な距離は縮まらない。
二十七歳のカイさんは、大学の講義中の話をした。
「後ろの席から視線を感じることがあって。振り返ると、いつも同じ人がノートを取りながらちらちら見てるんです」
近くの席に移ってくることは。
「一度もなかったです。いつも同じくらい離れた場所で」
休み時間に話しかけようとしたことは。
「あります。でも、すぐ逃げられました」
逃げた。
「はい。近づいた瞬間に、荷物を持って出ていく感じで」
どう解釈しました。
「嫌われてるのかと思いました、最初は」
違ったんですね。
「友達経由で、遠くから見てるだけでも嬉しいみたいって聞いて。それで、これ好き避けに近いやつだなって気づきました」
近づきたいのに近づけない。
「そういう不器用さが出てたんだと思います。あのとき、俺が近づいたのが逆効果だったのかもしれないです」
話しかけてきたのは、必ず相手側だった
三十一歳のリョウさんは、駅のホームでの話をしてくれた。
「向かいのホームから、女性がこっちを見てるのに気づいて」
向かいのホームですね。
「線路を挟んでます。だから、絶対に近づけない距離で」
視線は。
「電車が来るまで、ずっと感じてました。目が合うと少しうつむくけど、また顔を上げてくる」
何度か見かけた。
「同じ時間帯に、何回か。二週間くらいの間で四、五回だと思います」
そこから何が。
「あるとき、偶然同じ電車に乗ったんです。乗り換えのタイミングが合って」
そこで。
「近くの席に座った彼女が、前から見てました、って小さい声で」
驚きましたか。
「驚きました。というか、あの人が話しかけてくると思ってなかったので」
彼はそこで少し考えた。
「離れたところから見続ける勇気はあったのに、近づくのは別の話だったんでしょうね。距離がなくなった瞬間に、話せるようになったというか」
二十九歳のショウさんは、飲み会での経験だ。
「端の方に座ってる人が、ずっとこっちを見てて」
話の輪には。
「入ってこなかったです。ずっと端にいて、視線だけ感じる」
その場では何もなく。
「何もなかったです。帰りの電車で偶然一緒になって、そこで、さっきから見てましたって照れながら言われました」
自分からは。
「言えなかったです。あの状況で、見てましたよね、とは聞けないので」
三十六歳のケンジさんは、職場での話をした。
「休憩室で、いつも遠くの席からこっちを見てる人がいて」
話しかけたら。
「普通に会話はできるんです。それが不思議で」
自分からは近づいてこない。
「ほとんどないです。会議中も、離れた席から視線を送ってくる」
理由を聞けましたか。
「後で聞きました。近くにいると緊張して何も言えなくなるから、遠くから見る方が落ち着くって」
納得しましたか。
「しました。あの人、俺の前だと本当に喋らなくなるので。距離があった方が、あの人にとっては自然な状態だったんだと思います」
謝られた、という共通の場面
八人のうち三人が、同じ言葉をかけられている。すみません、という謝罪だ。
二十六歳のユウキさんは、高校時代の話をしてくれた。
「窓際の席の人が、授業中にちらちらこっちを見てるんです」
いつからですか。
「気づいたのは二年の秋くらいです。たぶん、その前からあったと思うんですけど」
近くに来ることは。
「なかったです。ノートを取ってるふりをしながら、視線だけ送ってくる。テストのときも、答え合わせのときも同じで」
そこから何かありましたか。
「ある日、提出物を渡しに行ったら、いつも見てて、すみませんって謝られて」
謝られた。
「謝られました。謝る必要なんてないのに」
どう返しましたか。
「何も言えなかったです。え、みたいな声が出ただけで」
三十歳のハルトさんは、図書館での経験だ。
「向かいの席から少し離れた位置に女性がいて、本の陰からこっちを見てるんです」
本の陰から。
「そうです。目が合うとすぐ本に戻る。でもまた感じる」
どのくらい続きました。
「その日は四時間くらいです。ずっと同じ状況で」
四時間。
「集中できなかったですよ。何を読んでたかも覚えてないです」
そのあとは。
「帰り際に、いつも見ててごめんなさいって声をかけられて。それで初めて話しました」
あの視線がなければ。
「話してないです。俺は気づいてても、何もできない側なので」
謝罪から始まるのは、本人が自分の行動を悪いことだと認識しているからだ。見ることそのものに後ろめたさを感じている。その後ろめたさが、近づくことをさらに難しくしている。
見られている側も、動けない
八例のうち、男性側から声をかけた例はゼロだった。
ここが重要だと思う。離れた場所からの視線は、受け取った側も動けなくさせる。
内容が読めないからだ。好意なのか、人違いなのか、単に視界に入っているだけなのか。判断材料が視線しかない状態で近づくと、勘違いだった場合の損失が大きい。カイさんが講義中に近づいて逃げられた例は、その怖さを補強する材料になる。
結果として、両方が動かないまま時間が過ぎる。
三十二歳のタケルさんの話は、その膠着が偶然に破られた例だ。
「街を歩いてたら、向かい側の歩道から女性がこっちを見てて」
すれ違いましたか。
「すれ違う瞬間に目が合って、すぐ外されました。でも、少し離れた位置で振り返ってまた見てるのがわかって」
追いかけたんですか。
「追いかけてないです。たまたま同じ方向に歩いてただけで」
そこから。
「信号待ちで並んだときに、前から気になってましたって声をかけられて」
信号がなかったら。
「何もなかったと思います。俺は絶対に話しかけないので」
彼はそこで少し笑った。
「あれ、信号のおかげですよね。二人とも動けない状況が三十秒くらいできたので」
物理的に留まらざるを得ない時間が発生したときにだけ、会話が始まっている。リョウさんの電車も、ショウさんの帰り道も、構造は同じだ。
視線が届いた後の八例
八人のその後を並べると、進展したのは五例だった。
トオルさんは知り合い経由で意味を知ったが、そこで終わっている。
「その後、そのカフェには何回か行きました。会わなかったです」
会いに行った。
「まあ、少しは。ただ、いなかったので」
連絡先を知る方法は。
「知り合いに聞けば、たぶんわかったと思います」
聞かなかった。
「聞かなかったです。あの人が近づいてこなかったってことは、そういうことなのかなと思って」
彼はそこで、少し言い直した。
「今考えると、それは俺の勝手な解釈ですよね。あの人は近づけなかっただけかもしれないので」
ケンジさんは、その同僚と今も同じ職場にいる。
「今も同じです。今も、遠くから見てきます」
何年目ですか。
「四年目です」
何か変わりましたか。
「変わらないですね。話しかければ普通に話す。自分からは来ない。ずっとそのままで」
聞いたことは。
「一度だけ、近くに来ないんですかって冗談で聞きました」
答えは。
「今のままがいいですって。笑いながらですけど」
彼はコップの縁を指でなぞってから、続けた。
「たぶん、あの人にとっては、あの距離が一番いい関係なんだと思います。俺が近づいたら、たぶん壊れる」
隣のテーブルで誰かが立ち上がって、椅子が床を擦る音がした。彼はそちらを一度見て、それから、まあそういうこともありますよね、と言った。